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たかが世界の終わり

土曜の夜、恋人の小池くんが飲み会に出掛けてしまったので、時間を持て余していた私は、新宿でレイトショーを見ることに決めた。
見る映画は決めていた。ドラン監督の「たかが世界の終わり」

恋人の小池くんは映画好きで、公開日翌日に一緒にララランドを見に行ったばかりだった。けれど2人の趣向は真逆で、私はララランド派、小池くはセッション派。と議論を交わすことになった。それも楽しいのだけれど、1人で余韻を楽しむべき映画もある。だから、この手の映画は1人で見るのがいいのです。

「わたしはロランス」は私に衝撃と、衝動をもたらした映画だった。女として生きたい男の人と、女になりたい男に男を望む、救われない恋愛の話。
その時からわたしの心はドラン監督に奪われた。

たかが世界の終わりは、家族の不和を延々に見せつけられる映画で、私は見ている間苦しくて苦しくて、窒息しそうだった。

このトーキョーで生きる多くの人たちは、故郷を思い出す時に何を思うのだろう。
人情のある田舎で幸福な生活を送って来た、なんて人はいないでしょう。
みんな家族の不和を、諦めたり、受け入れたり、逃げ出したりしながら経験して来た。

故郷は現実逃避の手段にはうってつけ、けれど私は結局他人に無関心なこの街に戻って来てしまう。
私にとってトーキョーは居場所がないことにホッとできる、不思議な街だ。
そう、私はもうこの街に、いつのまにか生活の基盤を築いていた。
現在交流のある多くの人を両親は知らないし、昔からゆかりのある人はほとんどいない。

そしていつのまにか、故郷に住む両親のことをどこか他人事に感じている。私の生まれ育った家で暮らす彼らのことを。
彼らに不幸が起こることを恐れながら、それでもあまり意識しないように生活している。全てがうまく行っていると信じて。

同様に、自分のことも、心配事など何もないように見せるようになってしまった。
本当はたくさん心配事があって、泣きつきたいこともたくさんあるのに、なんだかひとりで立派に立っていることを見せていなければいけないという、義務感に襲われている。
それは別に他人になった訳でもなく、愛が尽きたわけでもなく、何も変わりなくやっていますよ、というのが愛に他ならないと信じているから。

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