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命が還る場所としての「心臓音のアーカイブ」

ずっと行きたいと思っていた豊島に、先日ついに行くことができた。

瀬戸内海にある自然豊かな島で、ちょうど桜の時期。その日はコートがいらない晴れた日で、それはもう島旅にうってつけの気候だった。

豊島には美術館などアート作品が多く、それらを観に行くことも今回の旅の目的の一つ。

中でも特に印象的だったのが、フランスのアーティスト、クリスチャン・ボルタンスキーによる「心臓音のアーカイブ」だった。

魂の強さと、人間の"生"の刹那性

人それぞれの魂の強さと、人間として生きるということの刹那性や観念性。この作品を観て感じたのはこの2つだった。

ここでいう「魂の強さ」は決して強弱の話ではない。命や心臓という実態のあるものとは別に各人固有のものとして魂という概念が確かに存在することと、それ無くしては生きるということが輪郭を失うような強烈な概念であること、だ。

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クリスチャン・ボルタンスキーを愛する友人がこの作品について、「1人で訪れるには少し怖いかもしれない。情報が多く、強いから」と言っていた意味がよく分かった。

暗く閉鎖的な空間に、大きなスピーカーから胸を貫くように響くだれかの心臓音。天井から吊るされた丸裸の電球が心臓音にあわせて点滅していて、ときにはこのまま消えてしまうんじゃないかと不安になるほど心もとない心臓音もあったが、ちゃんと次の音と光がやってくることに大きく安堵したりした。

壁一面に並ぶ、大小様々な黒のガラスははじめ何を意味するのか分からなかったが、最終的に2つの解釈に行き着いた。

第三者的に見るなら、この心臓音の持ち主である人間たちの魂にも感じられるし、中央にある電球に自分の魂を投影すれば、人生で出会い重なりすれ違っていく自分以外の魂にも見えた。

個人的には後者の捉え方がしっくりきて、電球を中心に据えたまま入口から奥までゆっくり歩いてみたりした。

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鑑賞後にショップを見ていると黒ガラスが販売されており、「黒ガラスを覗き込んだときに映るのは、自分の姿ではなく自分の魂である」とコメントがあった。

魂という作者の意図を汲めていたことの嬉しさもありつつ、自分の魂もそこに映し出されていたのかという驚きが大きかった。ガラスに映る自分は、周囲を囲うガラスたちに飲み込まれそうでどこか不安げな表情をしていた気がする。

今の私の心臓はどんな音をしてどんな光を灯すのだろうと知りたくなったが、心臓音の登録はしなかった。今はまだ、そのときではないと思ったから。

命が還る場所としてのアーカイブと、豊島の海

「心臓音のアーカイブ」は豊島の海のすぐそばにあって、館内からは寂しげな海が見えた。

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命が還る先として、海の近くを選んだのだろうか。

館内では波の音が一切聞こえず、窓枠によって切り取られた海はまるで絵画のようだった。

この海辺に保管された5万弱の魂が、どうか安らかに在ることができるように。そう思いを馳せてしまう作品だった。



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