守られて生きるということ、大人になるということ


「私たちのハァハァ」という映画を見た。


松居大悟監督作品、クリープハイプのことが好きな女子高生4人が、クリープハイプに会いに行くために福岡から東京へと向かう話。

見た、というか、正確には、5年ぶりくらいに2回目に見た。

私がクリープハイプのことを気になるきっかけになった映画だとか、そんなことをつい語りたくなってしまうのだけど、それはいったん置いておいて。

5年前に見たとき以上に、この映画から匂い立つような「”高校生”のあの頃しかないもの」がより鮮明に感じられた。5年の年をとった分、私も見えるものが変わっていた気がする。

前よりも広く、細かいものが見えたような気もしたけど、それは裏を返すと、その分前は見えていたものが見えなくなったのかもしれない。


「東京」への期待や憧れ、違う場所へ行こうとする友人と、置いていかれるような不安、勢い、盲目、瞬間的なもの。そして、本人たちは気づいていないようで、しっかりと守られているということ。

そう、彼女たちはいろいろなものから守られていた。

「高校生だからだよ」とヒッチハイクに乗せてくれる大人、「高校生なのに」キャバクラで働かせてもらえること、ライブでのマナー違反に対して「若いもんね」と非難を免れること、見知らぬ土地で所持金80円になったときの切り札である親への電話。

世の中に潜む欲望とか危険とか絶望とかから、ずっと薄皮一枚で守られていて、それに気づかぬまま別の、”もっと重大で鬼気迫るもの”に一喜一憂する姿こそが、若いということなのかもしれないと思った。

薄皮一枚の向こう側が見えていないままの彼女たちがすごく羨ましくなったりした。

26歳の私は、世間のあれやこれやに常に晒されて生きている。「高校生だから」「若いから」という免罪符はとっくに消えていて、ときには自分の何かがすり減るような感覚すら覚えながら社会の荒波のなかを生きている。

17歳の彼女たちが必死になっていた、”世間のあれやこれやよりももっと重大なもの”に一喜一憂することはもうないのだろうか。

それが大人になるということの一つなのだとしたら、少しさみしいな。

私も高校生くらいの頃、「若いね」と何度か言われたことがある。そのときは「若いってなんだ?」って感じだったけど、今ならその正体が少し分かるような気がする。


気になって5年前に映画を見たときのインスタの投稿を遡ってみたら、21歳の自分はこんな感想を書いてた。

「自己投影するにはちょっと年をとってしまったけど、かといって完全に客観的に見れるほど大人にはなれてないみたい」

26歳の自分には、ちょっとどころか、自己投影をする余地は1ミリもなかったよ。

たしかインターンのために大阪から夜行バスで来ていて、慣れない新宿の街でこの映画を見た。

この頃の私は何から守られてたのかなあ。

こうやって「大人になったなあ」とか一丁前に思ってる私も、数年後にはまた若かったなあとか振り返ってるのかな。

年を重ねるのは寂しいこともあるけど、まだまだ面白いのかもしれない。

今はちょっとセンチメンタルな気持ちで振り返っているけど、10年後20年後はもっと違う世界が見えていて、こんな気持ちすら面白く思えてるといいな。そんなふうに年を重ねていきたいと思った。

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