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孤独な女

——誰かが私を孤独だと言った。あなたはどう思う?
他人に後ろ指を差された時、私の背中には何か得体のしれない侘しさがこびりついてしまった。これが孤独というものなのかもしれない。そう思ったの。



 私は生まれた時から愛されない時がない子どもだった。蝶よ花よと育てられ、すくすく育った私は何の柵もなくただひたすらに純真な少女となった。
 中等部に入学して暫くした時のことである。掃除時間中に、私のすぐ近くを掃除していた隣の班の女子たちが箒を持ちながら恋の話にうつつを抜かしていた。すぐに教員に解散させられたが、彼女たちの会話が私の耳にははっきりと残った。「絶対に内緒よ?私ね、畠中くんが好きなの」
 それ以降、私はふと気づけば畠中正人という同級生の姿を目で追っていた。学年でも人気の女子である仲村雅が好いているという少年に一体どんな魅力があるのか興味があった。私がじっと見ていると彼が私の視線に気づいてこちらを見ることが多々あった。時には目を逸らし、時には曖昧に微笑んだ。そんな日々が続いたが、やがて転機が訪れた。席替えだった。
「俺、宮野の隣だ」
 畠中の声がやけに大きく聞こえ、私はぎくりとした。宮野とは私のことだった。皆が一斉に机と椅子を持って大移動を開始した。ギギギと机が振動する音が手に伝わって自然と手が震えていた。しかし、手が震えた本当の原因は神による悪戯に慄いていたからだ。
「今日からよろしくな、宮野。俺、あんまお前と喋ったことなかったよな?」
「こちらこそよろしくね。そうだね、これがほとんど初めての会話かも」
 畠中は少しキョトンとした顔をした後すぐに破顔した。「宮野って意外と喋るんだな。お高くとまってる感じだと思ってた」
「まさか」
 二人でケラケラ笑っていると、担任から「そこ、煩い」と注意された。それにもまた可笑しさが込み上げて互いに顔を伏せて肩を震わせた。

 ある数学の授業の時である。私は数学が苦手で、自習時間に与えられた問題に苦戦していた。畠中は数学が得意なため、授業が始まって数分もすれば手持ち無沙汰になったようだった。チラチラと彼が私の様子を伺っているのがわかり、意を決して教えを乞うた。彼は喜々として懇切丁寧に解き方を教えてくれた。畠中の淀みない完璧な説明に私が感動していると鼻高々といった様子で自慢げな顔をした。私はそれを可愛く思った。しかし、それが面白くなかったのは仲村雅だった。彼女の席は通路を挟んだ畠中の斜め後ろで私達の会話に耳を澄ませていたらしい。突如、彼女が立ち上がり畠中の机までやってきた。
「畠中、私にも数学教えて」
 畠中は一瞬驚いた様子だったが次の瞬間には「いいぞ、椅子を持って来い」と言って人好きする笑みを浮かべた。何故だか、その時、私は彼が猫を被った気がした。
 仲村に彼が数学を教えている間、数学の問題を解き終えた私は斜め前の男子に話し掛けられ、様々な話に花を咲かせていた。すると、いつの間にか畠中も私達の会話に混じっていた。
「あれ?仲村さんはもういいの?」
「ああ、粗方やり方教えたし、一人でもできるだろうと思って席に帰した」 
 私が特別扱いされていることにこの時初めて気がついた。何とも言えない複雑な気持ちになった私は「そう。仲村さん、頭いいものね」と答えるのが精一杯だった。

 放課後、日直だった私は一人教室に残り日誌を書いていた。ガラガラと扉が開く音がしたが、私は特に気にせず筆を走らせた。タンタンという足音が教室の中でやけに大きく響き渡り、気になってふと顔を上げると足音を鳴らしていた当本人が既に私の目の前に立っていた。「宮野さん」
 仲村に声を掛けられた私は硬直した。やましいことなど何一つないはずなのに、彼女の大きな焦げ茶色の瞳に見つめられると冷や汗がどっと流れ出た。握っているペンが滑りそうだった。
「仲村さん。どうかしたの?」
 私の言葉に彼女は少々苛立ったように目の前の椅子を乱暴に引き出して腰掛けた。
「私、ずっとあなたと話そうと思ってたの」
「何について?」
 緊張しながらも何食わぬ顔を装って日誌を私は書き始めた。仲村は気にしないふりを決め込む私に苛立ったようにバンッと開かれた日誌を叩いた。
「惚けないで。あなた、畠中のこと、好きなんでしょう?」
「どうしてそう思うの?」
「クラス中で噂よ。それで、本当に畠中のこと好きなの?」
 私は大袈裟に溜息をついて、筆を置いた。
「好きか嫌いで言えば、好きよ」
 仲村がひゅっと息を呑んだのがわかったが、そのまま私は言葉を続ける。
「でも、それは人間として。きっと、仲村さんやクラス中の人たちが思っているような色恋沙汰の好きではないわ」
「……畠中からは何か聞いてないの?あなたのこと、どう思っているとか」
「私がそれを知っていたら、クラス中の噂になんかなってないと思うけれど」
 この一言で自分の愚かさに気がついたのか、仲村は苦虫を噛み潰したような顔になった。私はとどめを刺すように次の言葉を放った。「そんなに気になるなら、畠中本人に聞けばいいわ。私が下手な憶測を並べるよりも正確よ」
 仲村は「わかったわ、ありがとう。突然変なことを聞いてごめんなさいね」と言って、すくっと立ち上がったかと思うと次の瞬間には廊下を颯爽と歩く姿が目に入った。私は緊張の糸が解れたように日誌の上にだらしなく上体を倒していた。

 かの放課後に起こった仲村との問答以来、彼女が積極的に私に関わることはなくなった。寧ろ、仲村の畠中へのアピールが日に日に公となり、クラス中はその話題で持ちきりだった。
「なあ」
 掃除を終え、教室に戻ろうと箒をロッカーに片付けた折、背後から知った声が聞こえてきた。
「どうかしたの?畠中」
 畠中も小脇に箒を抱えており、ロッカーに返すところだというのが見て取れた。私は少し脇にずれ、彼にロッカーを譲ると畠中は軽く会釈をして箒をしまった。
「俺、部活のことでちょっと西田に呼ばれてるんだ。だから、終わりのホームルーム遅れるから先生に言っといてくれないか?あと、仲村から何か渡されたら受け取っておいてほしい。俺に渡すのは明日でいいから」
 仲村と聞いて多少の嫌悪感は持ったものの、私はその頼みを引き受けた。西田とは畠中が所属する部活の顧問であり、私達の中学校の体育教員である。
「助かるぜ。こんなこと頼めるのは宮野だけだわ。それじゃ、また後で」
 畠中は白い歯を覗かせて軽く手を挙げると、風の如く去っていった。私は彼に手を振りながら、彼の姿が見えなくなると踵を返して教室へ戻った。
 畠中は宣言通り、ホームルームに遅れて入ってきた。私が先生に予め彼が遅れる旨を伝えていたため咎められることはなかった。彼は自席についたかと思うと、ぐっと私の耳に口元を寄せて「ありがとう」と囁いた。掠れたその低音は私の心がざわついた気がした。
「どういたしまして。この借りは高くつくわ」
「お友達価格でお願いします」
 2人でクスクス笑っていると担任に注意された。前まではここで「夫婦みたいだな」なんて茶々が入ったものだが、仲村に気を遣ってか今は誰も何も言わない。
「じゃあ、これでホームルームお終い」
「起立!礼!さようなら」
 日直の掛け声で一斉に生徒が立ち上がり、礼をすると「さようなら」が教室いっぱいに響き渡った。それからは各々の活動のために散り始めた。畠中も例外ではなく、私に「また明日な」と声を掛けたあとは部活仲間と連れ立って早々に教室を離脱した。
 私がホームルーム前までに終わらなかった帰宅準備をしていると、仲村がこちらにやってくるのが視界に入った。溜息をつきそうになるのを堪えて、彼女の気配を意識しながら教科書を鞄に詰める。
「宮野さん、これ……」
 そう言って彼女が目の前に差し出したのは最近流行りのバンドのCDアルバムだった。
「畠中に借りてたんだけど、今日返すって約束していたのにタイミングなかなかなくて……。もし、俺が受け取れなさそうなら隣の宮野に渡しといてって言われたから」
 関係ないのにごめんね、と仲村が付け加えたのは故意的だろう。私と彼の橋渡しを頼んでごめんなさいね、という優越感に浸った彼女の感情が手に取るようにわかった。
「ううん、いいの。私もさっき畠中から頼まれたから知ってたし。返しておくね」
 CDを受け取ると、鞄の中にそっとしまった。
「えっと……それじゃあ」
 仲村が視線を外したため、私も「バイバイ」と声を掛けて別れた。
 私が教室から出るとグラウンドが見えた。ウォーミングアップを行っている真っ最中の畠中の姿が見えた。グラウンドの端には数名の女子生徒が認められ、ある一点を見つめていた。視線の先には畠中がいた。私は彼らを交互に見遣り、青春結構とポツリと呟いて前を見た。
 実は、私は畠中が嘘をついたことを知っていた。彼が西田に呼び出されていたのは事実なようだった。次期キャプテンと噂される彼は西田からの期待も絶大だ。まだ新入生だというのに、練習試合にも積極的に採用されているという。窓際の席だった私はホームルームが始まる少し前に西田と畠中が渡り廊下で話しているのを見つけた。次の瞬間、話は終わったとばかりに西田が職員室の方へと立ち去った。暫くその場に留まっていた畠中は、ちらりちらりと時計を伺い、やがて思い立ったように反対側の校舎の方へ歩き始めた。この時、畠中が仲村との接触を避けようとしていることを私は知った。そうでなければ、ホームルーム前に西田との話が終わったのだから帰ってくるはずだ。彼の意図を汲んだからこそ、私はわざとゆっくりと帰り支度をして仲村との接触機会を設けた。
 下駄箱で下靴に履き替えた時にふと疑問に思った。私はなぜそこまでして畠中のために便宜を図ったのだろうか。
 
 帰宅して一段落ついた私はスマホをなんとはなしに触った。特に連絡はなく、すぐに閉じた。暫く学校の課題をこなし、日がすっかり暮れた頃、母親に夕飯のために何を準備すべきか聞こうと再びスマホを開いた。一件の通知があった。母親かと思い、アプリを開くと畠中からの連絡だった。部活終わりらしかった。
『よ!畠中だ。今日は色々頼んで悪かった。ありがとう!』
 私は既読をつけたもののなんと返していいかわからず、そっとそのまま画面を閉じた。それから、母親に連絡し、やるべきことができた私は早速夕飯の準備に取り掛かった。家族の人数分作った夕飯を食べ、お風呂に入り、翌日の準備をしようとした時すっかり畠中への連絡を忘れていたことに気がついた。日が変わりそうになっており、慌てて私は返信をした。
『ううん、全然大丈夫!明日、預かったCD返すね』
 ちゃんと返したことに安心した私はそのままスマホを充電場所に置き、消灯をして眠りについた。
 翌朝、スマホのアラームで起床し、通知画面を見るとまた一件通知が入っていることに気がついた。寝ぼけ眼を擦りながら開くと再び畠中からだった。私の返信のあと、数分と経たないうちに返信が来ていたらしい。
『わかった!じゃあ、また明日な。おやすみ』
 なんと返信するか考え、無難な回答を送った私は学校へ行く準備に取り掛かった。
 いつもより少し早く学校へ着いた。教室に着くと私の隣の席に既に人影があった。ガラガラという扉が開く音に反応してその影がこちらを向いた。
「おはよ、宮野」
「おはよう、畠中」
「今日は早いんだなあ。珍しい」
 私はそれには応えず、スタスタと彼に近づくと鞄の中から仲村から昨日預かったCDを手渡した。その時気づいたが、CDには付箋が貼ってあった。仲村のコメント付きなようだ。
「お、ありがとう」
 彼の手にCDが渡る寸前、指先と指先が触れ合ったが私は気づかないふりをした。
「それ、有名なバンドのアルバムだよね。最近、人気の」
「そうそう。これはメジャーデビューしたての時に出したアルバムなんだ。わりとレアなんだぜ?古参アピールするわけじゃないけど、俺はアングラの時から応援しててこれが出た時は涙出るほど嬉しかったんだ」
 心底嬉しそうに話すため余程好きなのだろう、と私は思った。私のそんな温かい視線に気づいてか、慌てたように「ごめん、勝手に語って」と付け足した。
「いいの。人が好きなものについて話す時の顔、好きだから」
 畠中はなぜか赤面して「宮野も興味ある?あるなら貸すけど」と話を逸した。
「え?いいの?」
「ああ、全然構わねえよ」
 こうして私の手に再びCDがやって来た。付箋の部分だけ剥がして私は彼に渡した。受け取った彼は無表情のままザッと内容に目を通すとその付箋を鞄の中に入れた。
「読み方雑じゃない?」
 私が笑いながら言うと「俺は雑な人間だからこんなもんだ」と畠中は笑った。

 CDを借りて以来、畠中と私は毎日連絡を取り合う仲になった。友人は私が畠中の話題をよく出すため、彼との関係を疑っているようだった。
「仲村さんが最近、美貴と畠中が付き合ってるんじゃないかって嗅ぎ回ってるよ。ついにこの間、私まで尋問されたもん」
 お弁当を食べながら仲のいい友人たちが口々に「私も」と言った。「で、結局どうなの?美貴」
 箸先を唇にあてながら皆真剣な表情で私を見た。
「どうって聞かれても……何もないから言いようがない」
「またこれよ〜〜小林の時もそうだったよね!」
「でも、結局あれは小林の片思いで告白することもなかったじゃんか」
「そうだったそうだった」
「モテるね〜〜美貴!」
「小林のことも噂でしょ?信じ過ぎだよ」
「どうだか〜〜」
 友人たちは再び「結構信憑性あるよね!小林の噂は!」と噂話に夢中になっていた。ちらりと畠中の方を伺うと仲のいい男子グループで固まって談笑ひているのが見えた。目敏い友人が「今、畠中の方を見たでしょう!見てたよね?」と囃し立てると私はギクリとしながら「違うよ、時計見ただけ」と冷静に訂正した。
「なんだ。つまらないの〜〜」
 その友人の頬を抓りながら「残念でした」と戯れていると、背中に強い視線を感じた。確認しなくても誰のかはすぐにわかった。「仲村さん、こっち見てるよね?」
「うん、美貴のこと見てるというより睨んでる」
「美人が睨むと凄みがあるわ」
「怖い怖い」
 他人事と思って友人らはケラケラと笑った。私は一人、嫌な予感がした。

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