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変人スピーチライター近藤圭太はこんな人(その1)

スピーチライターの近藤圭太です。

7割からは不快に思われ、2割の人はユニークと感じ、ワンチャン1割からは愛される。

これは私の52年の歩みの中で繰り広げられてきた人生模様でもある。

言ってみれば、私は正露丸のような男。

基本的には不快な臭いを発しながらも、「いざと言うときには役に立つ」社会には、そんな存在もあって良いのではないか。

ともあれ、個性のきつい人間性が時にハレーションを生じ、単純に幸せと言える人生を歩んできたわけではない自分自身である。しかし、「一番好きなことを仕事にできている」ことには心から感謝したい。

そして、大学に行っておらず、工業高校の機械科卒というキャリアにもかかわらず、なぜか約5人に一人のクライアントからは「先生」と呼んでいただき、「一文字20円」という単価で14年も仕事を続けることができた。

これは、私の努力と言うよりも、このような変わった頭の構造に産んでくれた両親のおかげという他はない。

これからもなりわいとして文章に関する仕事を続けていくことに変わりはない。

その上で、私の拙い方法論を社会にいささかでも役立てていただけることを持って、昨年の3月30日、93歳で他界した父や現在85歳である母への親孝行に替えたいと願っている。

私がいわゆるスピーチライター、「社会のリーダー層の人たちの挨拶原稿を代理作成する仕事」を始めたのは、2009年の9月初頭のことであった。

先にも書いたように、私は大学には行っていない。

ただ読書そのものは好きな人間であり、長年、司馬遼太郎や三島由紀夫などの作品には親しんできた。

さらには経済学者、野口悠紀雄先生の一連の著作には大きな影響を受け、文章の作り方、アイディアのまとめ方においては、野口先生なくして今の自分は無いと感謝している。

「お前は絶対にエロ小説を書け、普通の人間には、そんな発想は浮かばん(友人の私に対するコメント)」

たわいのない友人とのやりとりの中で、このような反応が返ってくることがあっても、それまでの自分は時折、Amazonのレビューに尖ったコメントを書く位で文章を書いて生計を立てた事はなかった。

ただしかし、ちょうどその2009年9月初頭、自分はひとつの決断に迫られていた。

すなわち、
「生きていくためには、言葉を発するしかない」

そんな私が、最初は見よう見まねから始めたものの、原稿作成において、独自の方法を徐々に作り上げ、ブラッシュアップし続ける中で考案した方法論がある。

これに関しては、次回以降の記事において、詳しく解説する。

しかし、この「選択式」文章法は「AIが得意なこと」と「人間にしかできない判断」を見える化するノウハウである。

例えて言えば、オーダーメイドの服を最初は仮寸法で作り、後で体にぴったり合わせるように文章をカスタマイズすることができる。

生産性の高さにおいても、文章そのものの完成度における満足度においても、社会における一定のニーズを満たすものになり得ると自負している。

さらに、今時代の大きな潮目となりつつある「AIチャットの飛躍的な技術革新」そしてそれによって生じる、「ライターや編集者と言う職種のモデルチェンジ」への対応にも資することになるのではないかと確信している。

さて話は変わる。スピーチライターという言葉の響きに、皆さんはどのような印象を受けるだろうか。

原田マハ先生の小説のあまりよくない影響から(失礼ながら、少なくとも私はそう考えている)この職種は、「世界を変える夢の仕事」という極めてお花畑な印象が世間に刷り込まれている。

決してそんなことは無い。

クライアントの話を粘り強く聞き、それをいかに精度の高い言葉で言語化できるか。基本的には、こういった泥臭い仕事が、本来的な意味でのスピーチライターの本分。チャラチャラした考えで臨めば弾き飛ばされるのが落ちである。

思い込みや自己満足、過度に美しい言葉を使うことのリスク。

それでもなお、「本当に伝えなければならないメッセージ」

この両面を秤にかけ、クライアントの専権事項であり、たったひとつ手伝うことができない「決断」のサポートをいかにできるのか。

このことをそれこそ頭がちぎれる位考え、テキスト化という実務に落とし込むのがスピーチライターという職業の実態である。

ここで、日本の一部のビジネスパーソンが主張しているスピーチライターの定義の誤りについて指摘しておきたい。

前述の原田マハ先生の小説の中で、「スピーチライターは、いわゆる演説パブリックスピーチの話し方のテクニックを教える職種である」という表現がなされている。

このようなことを言っているのは、原田先生ならびに、彼女の小説をマーケティングに利用している一部のトレーナー系の人間だけである。

英語版のウィキペディアのスピーチライターに関する項目においては、「話し方を教える職種」という表現は全く見当たらない。

さらに、百科事典のキュレーションサイトであるジャパンナレッジの中に掲載されているスピーチライターの項目のいずれにおいても「パブリックスピーチ」並びに英語圏における話し方を教える職種の呼称である”Public speaking coach”に関係する記述は一切見当たらない。

①演繹的なアプローチ
(海外のスピーチライターの事例という事実の積み重ねによる根拠付け)

においても、

②帰納的なアプローチ
(スピーチライターを自称する人間が一定数存在し、「業界」と言える規模において成立している事実→「もしあるとすれば」という次元の話だが)
⬇️ ️しかし実態は、あくまでもフィクションである原田マハ先生の小説、それに便乗している1名、ないしは2名しか確認できない状況がある。

いずれにしても、「原稿作成はスピーチライターの本分ではない」という一部の人間による空虚な主張を正当化させることは、もはや不可能と言っても差し支えない。

該当する原田マハ先生の小説のエンタメ的な価値については、私は論評するつもりはない。あくまでも作家と読者の間で完結する、幸福な関係性を否定することは毛頭考えていない。

これは提案だが、作品内における「スピーチライター」という表現を改め、諸外国における同職と比較する表現も割愛した上で、「全く別の呼称による、独自のお仕事」という体でリライトした上で、再出版されてはいかがだろうか。

先に述べたように、諸外国における実務内容との整合性にかなり無理がある「スピーチライター」と言う呼称ではなく、どのような名称にするのか。

そのことに関しては、「言葉のプロ」を自認しておられる原田マハ先生ならびに、スピーチライターを名乗っておられるトレーナーの先生方がそれにふさわしい名称を再定義されてはいかがだろうか。

高い言語化スキルを持つあなた方であれば、十分に可能であると私は考える。ご活躍、ご健闘を心からお祈りしたい。

もとより、何も見ずに語りかける、パブリックスピーチの技術が時に有用であることは言うまでもない。

著名な政治家の演説、カリスマ的なMCによるプレゼンテーション、「武器として使いこなす」ために手段はあり、手段は目的によって正当化される。これは当然のことである。

その上で、「何のため」という観点が欠落した「手段そのものの自己目的化」が空虚であることも真実である。

いわゆるスティーブ・ジョブズの「伝説のスピーチ」は、演台の上に置かれた紙を読み上げている。

さらに、イギリスのチャーチル元首相はかつて海軍大臣時代に議場でパブリックスピーチを試み、数分間絶句したという苦い経験から、「書いたものを着実に読み上げるスピーチ」にシフトしたという歴史的な事実もある。

「孫子の兵法」の中にも「百戦百勝は善の善なる者に非ず」とあるように、「戦術的な勝利(オーバーアクションなスピーチで拍手喝采を得る)」ことが必ずしもマストではない。

「完成された美しさ」、これはいわばダンスである。しかし現実の世の中においては、「変化にいかに対応するか」がむしろ重要ではないだろうか。

「キャプテン翼」の中で描かれる、曲芸的なプレイがパブリックスピーチ至上主義者の考えている世界であるとすれば、先のワールドカップにおいて日本を勝利に導いた、人間だからこそ成立する三苫選手のような「ライン際の攻防」こそが、AIチャット、全盛の時代においても「言葉のプロ」としてライターや編集者が生き残る試金石になるのではないかと
考える。

さて、次回以降は幾多のクライアントとの言葉と、言葉のやりとりの中で生じたドラマ、そしてその中で生み出された独自の文章作成の方法論について詳しく紹介して参りたい。

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