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偶発性の人生を楽しむ

今までも何回か、偶然のキャリア形成というテーマでこのコラムも書いてきた。

今回は、もう少し大きく捉えて、人生はそもそも偶発的であるという話を紹介したい。

偶発的な行動や活動は平たく言えば、「たまたま、適当、でたらめ・・・」などの言葉で
表現される。

一見、"いい加減”という印象が強い。

一方で、計画的な行動や活動は、「きっちり、堅実、真面目・・・」などで表現される。

付き合う相手として、どちらが好きか嫌いか、人間の生き方としてどっちが良いか、
などと評論する人もいるだろう。
特に、今の日本の社会では、後者に縛られている中高年サラリーマン、若者など人生を本当の意味で楽しめていない人が多いと痛感する。
私は、ひょんなことから31歳から自分で会社を経営している。
色々なことを言われる立場でもある。人は毀誉褒貶(きよほうへん)が激しい。
いちいち気にしていたら、何もできない仕事でもある。
そんな中、"近藤さんは社長で自由だから楽しいことができるんだよね"と言われる事は実は多い。

しかし、私は必ずしもそうは思わない。

何も社長でなくてもサラリーマンでも、医者でも、職人でも、料理人でもそれなりに楽しくやっている
だろうと思う。

私はそういう性分だからだ。

人生は楽しむものである。

色々とお付き合いしている中で、楽しそうに人生を送っている人はどんな仕事をしていても、
決まって同じことを言われる。

人生を十二分に楽しむには人との出会いを大切にすることだ。

また、一見楽しそうに見えても、実はその裏側では、それ相応の苦労や困難があるのもまた真実。

いずれにおいても人との関わりで生じることだ。

つまり、人生何をするにも人の縁という話である。

私は、そろそろ半世紀近くの人生になるが、常に頭の中にある印象深い歌がある。

人との出会いを見事に表現した実によくできた歌だ。

それは中島みゆきの「糸」である。

正確ではないが、フレーズの感じはこうだ。

人は縦の糸と横の糸、巡り合う運命の人は、いつかどこかで巡り合う。
そして、出会った瞬間にお互いの過去を知り、共有する。

私は、この歌のように同じ平面状に存在する縦と横の糸は必ず出会うと解釈している。

逆にいえば、同じ平面状でなければ、永久に会うことはないわけである。
人の縁とはそういうものだと。

仕事柄、最近、人とのつながりの輪が加速度的に広がっているのを実感する。
"六次の隔たり"という仮説があるが、今それを実感しているところだ。
それは、簡単に言えば、
知り合いを6人たどれば
世界中のどんな人とも知り合えるというものだ。

これは、実はビジネスにも当てはまることで、今週だけでもいくつもあった。

「実はお客様のあの人と私のこの人は知り合いだった」
こんな話が毎日のように出てくるのである。

確かに世界には数十億の人間がいて、
一生の内に出会う人の数と言えば、1%にも到底及ばない。

しかし、世の中は良くできたもので、自分の感性や志にシンクロする人は、いつかどうこかで出会う。

それが偶発的でも計画的でも大差なく、タイミングや出会う年齢も関係なく。
結局は自分がどう思うか次第なのである。

それは縁の大切さを感じられるかどうかだと思う。

この原稿を書きながら、ふと、インターネットを覗くと、こんなニュースが流れていた。

そのまま、引用すると、

「今春卒業予定の大学生の就職内定率は2月1日現在で、 前年同期より6・3ポイント低下し、80・0%だったことが12日、
厚生労働、文部科学両省の調査で分かった。

 1999年度の調査開始(2月1日分)以来、
過去最悪を記録。
 2000年辺りの『就職氷河期』の水準も下回っており、新規採用に慎重な企業が多い実態が浮き彫りになった」

これを見た学生たちとその親御さんたちは、どう思うだろうか?
私は、200年辺りの前回の就職氷河期だった頃に思いは走る。
この頃に社会人になった人は、本当に不幸になったのだろうか?

就職率が高かろうが、低かろうが、結局、人生に影響がないのである。
中小でも、アジアでも、幾らでも偶然の出会いが転がっているのだから・・・。

(本記事は、ブログ「近藤昇の会社は社会の入り口だ」に、2010年3月19日に投稿したものです。)