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シェアハウス生活の結びに得た「振る舞う」「もてなし」「優しさ」についての考察

五年に渡るシェアハウス生活の最終日

二十五歳で実家を出てから今まで、私はシェアハウス暮らしを続けていた。五年間で住んだシェアハウスは四件。うち二件は肌が合わずにすぐ引っ越したので、思い入れがあるシェアハウスは二件だ。

一件目は、京都が伏見区にある、古民家を改装したシェアハウス。
二件目は、荻窪駅のほど近くにある、キッチンが豪華なシェアハウスだ。

どちらも大変刺激的で、人付き合いが得意とは言い難い私の人生を好転させてくれたものの一つだと思う。
私は今、ちょうど荻窪のシェアハウスの共有スペースでこのnoteを書いている。本日付の退去に伴い、部屋の明け渡しと鍵の回収にくる管理人を待ちながら。

次の住居は普通のワンルームマンション。齢三十にして初の一人暮らしだ。結びの意も込めて、この五年間のシェアハウス暮らしについて、ちょっとまとめてみようと思う。

京都伏見区のシェアハウス → どん底からの回復

二十五歳の夏、私は鬱屈に満ちていた。仕事が思ったようにならず、収入が安定もせず、バツが悪くて居心地の悪い実家暮らし。
いったん環境を変えたくて、「そうだ」と京都に引っ越すことにした。
家具一式を揃える貯金もない私が、身一つで転居するための選択肢として、見つけてきたのがシェアハウスというライフスタイルだった。
しかたなく、から始まった生活だったが、結果としてこの選択は最良だったように思う。
私はいたくこのライフスタイルが気に入り、気づけば足掛け五年間。東京に戻ってきてからもなおシェアハウス生活を続けることなった。

当時の私はそれはもうボロボロな状態で、なんとか見つけた「プログラマ」という職の種火を消さないように必死だった。
そんな追い詰められた状態で、もともと人当たりがあまり良くない人間をシェアハウスに放り込むとどうなるか。まあ、それなりに問題を起こす。
端的に言うと私は、優しいやつではなかったのだ。「優しい」と言うのは、「対人能力が優れている」という人間の能力を表す形容詞だ。気の持ちようや態度を評する言葉ではないし、感情や根性で解決できる問題ではない。
天賦の才で「優しい」状態を続けられる人間ももちろんいる。が、大抵のひとはそうではないし、その状態を維持するにもそれなりの努力と余裕が必要になる。

そういった「優しくない」人間であった私が、シェアハウスでなんとかやっていくためにとった戦略。それが「振る舞う」という行為だった。

うまい飯を多めに作って周囲にばらまく。
いいものが手に入ったらみんなでご飯。
入居者が増えたら歓迎会。

料理は作るのも食べるのも好きだったので、とにかく率先して人に食事を作りまくっていた。飯を振る舞うことを人間関係への投資として考えてみる。
金銭の貸し借りに過敏で、無意識にあらゆるものの原価の計算が「できてしまい」、十円程度の金銭のやりとりも「忘れることができない」みょうに吝嗇な性格の私にとって、これはよいやり方だったと思う。

人間、美味しい物を口に突っ込んでくるやつに負の感情を持ち続けることはは難しいのである。もろもろで摩擦が生じる人間関係の歯車に、ちょっと美味しいものを潤滑油として差して回る毎日を送っていた。

しかしまあ、人間不思議なもので、そのうち人に料理を振る舞うことそのものがだんだんと楽しくなっていた。自分の作ったものが人に評価される。それが楽しくないほどひねくれてはいなかったと言うことだと思う。
食事作ること自体が楽しくなった私は、種火から松明程度の大きさに育ったプログラマと言う職を携えて東京に戻り、そして「食をテーマにしたシェアハウス」への入居を決めた。

荻窪のシェアハウス → もてなし強者との遭遇

東京に戻り三年弱。なんとも充実した毎日であった。
今日でこのシェアハウスを退去するわけだが、その原因は決してネガティブなものではない。
三十の節目を迎え、これからの人生の戦い方を考える上で、シェアハウスと言うライフスタイルはそろそろ卒業かな、と思ったのが主な理由だ。(これについてはそのうち別の記事にしたい)
もちろん、書いてもしょうがない理由も良し悪しいくつかある。まあ、何かにつけて先延ばしがちな私にとって、新生活などという面倒なことは勢いに任せて始めるのが吉だ。

今のシェアハウス生活の与えてくれる癒しは凄まじかった。
ふと思い立ってキッチンに出向き、ちょっとだけ凝ったものを作ると、それを振る舞うことができる相手がいる。それも複数人で、食に関心が強い人が多い。味覚が鋭く、こっちがちょっと手を抜くとそれに気づくシェアメイトもいた。そんなこともふくめて、まぁ料理好き冥利に尽きる、張り合いのある生活である。

このシェアハウスに一人、すごい男がいた。
そいつは度々こんなことを言うのである。

「コーヒー入れるけど、飲む?」

文字にしてみれば、なんて事のない一言だ。だが、その一言は常に恐ろしく洗練されていた。全く嫌味なく完璧な間。決して目立とうとせず、それでいて決してやりすぎることなく。食後の緩んだ空気の急所に、彼は度々これをつきった。おそらく本人からすると意識すらしていないと思う。
行住坐臥。その振る舞いが当たり前になっていないと出てこない、もてなしの妙だ。とても「優しい」というやつだ。たぶん、天賦の才があるほうの。

正直、随分彼に憧れた。嫉妬していたといっても良い。私が頑張ってやっていることを、彼は私よりはるかに高い完成度で実行するのである。

同じようなことをしてみたくて、共同スペースを使うたび皆にコーヒーを入れてみることにもしてみた。だがまあ、形だけの模倣が虚しくなるのは世の常で、やっていて違和感を覚えることが多い。

私はどうにも「恩着せがましい」のだ。ついやりすぎたり、やらなさすぎたり。その間をふらふらとさまよう振る舞いをしてしまう。苦悩というほど深くは考えなかったが、これは10代のころから。長らく私に引っかかっている言葉だ。
一方彼は嫌味がなく、見返りを求める心が微塵も見えてこない。無償の愛と評するのは言い過ぎだろうが、それに近いものがある。しばしば行われた飲み会の後、彼は疲れているはずなのに率先して皿の後片付けをしているのをみて、こいつの真似は出来んわといろいろ諦めた。

どうしたものか。シェアハウスで生活を続けるうちに、この問題には自分なりの答えがた。

そして一人暮らし → おれ式もてなし術

まず前提として、私は天然ものの「優しいやつ」にはなれないということから始まる。人に褒められたくてたまらんくせに、態度に吝嗇が染み付いている俗物なので、その道でやれる方法を模索することにした。

そこで大事になってくること。それは「笑い」かなぁと考えている。

感謝されたいという態度は、「感謝してちょ」と口に出せば冗談になる。
ちやほやされたい、という気持ちは、「ちやほやしてくれ」と文字にすれば笑いがおこる。
無償の愛は目指せない。往々にして私はやりすぎ、常々やることはわざとらしい。ならばその「やりすぎ」「わざとらしさ」をカッコで括って強調し、傲慢と滑稽をもって「優しさ」の代わりにしようと思う。

金で買える人望はとりあえず全部買っとくことにしている。万物すべてギブアンドテイク。私の優しさは有料です。対価は、まあ、褒めてくれりゃそれでいいよ。そんな冗談を、最近僕はよく使う。

さて、明日から本格的に新生活である。

退去にあたって、シェアハウスの包丁全てをシャープナーで研いでおいた。居住者各位は切れ味に驚くとともに、存分に感謝してちやほやしていただきたい。


そして新居。運良くよい間取りの家を借りることができ、コロナがもうひと段落したら友人を招いて食事もできるだろう。
気に入った皿とグラス、ローテーブルにカトラリー。そして何より、生まれて初めての私専用のキッチン。存分に恩着せがましくなれる場としての自宅である。
シェアハウスのキッチンを失って、料理を振る舞いたい欲に度々駆られると思うので、ぜひぜひに遊びに来てほしい。

こんな結びの文を書いていたら、突然「ねーアイスコーヒー入れてー」とシェアメイトにせがまれた。

「なんでや」と聞いてみたら、「よくコーヒーを淹れてくれるから」とのことだった。

しかたねーな。マキネッタでうまいのを淹れてやる。でもその替わり、話のオチに使わせてもらうよ。


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