父の生い立ちを探る 2

父は函館で一代で財を成した近藤孫三郎の孫だったが、分家筋の孫だった。当時、本家は合資会社近藤という海産物を商う問屋を営んでいて、函館船場町の煉瓦倉庫街に店舗を所有するような大きな商家のひとつだった。父は商家の分家筋の三男に生まれたお坊ちゃんとして育つのだが、父が幼い頃に生母を亡くしたため母の面影は写真の中にしかなく、寂しい思いをしたと語っている。

合資会社近藤では既に本家筋の継承者が孫三郎の三男の彦作に決まっており、父は家業の商家を継ぐ必要はなかったが、一族の商売につながる学歴として、商業学校への進学を期待されていた。しかし、本家筋ではなかったので、最終的には自由に生き方を選択できたのだろう。

父が遺した文章に次のような記述がある。
「小学校6年間は優しくも厳しい熱血感あふれる先生に受け持たれた。家業が海産商なので商業学校を選択したが、普通の中学校の方が選択肢が多いという理由で新設の市立中学校の2年生の編入試験をうけた。成績が良かったのか合格した。」

成績が良かった父は、中学に進学し卒業したが、上の学校に進学する際に、その後の人生を変える大きな岐路に至った。高等学校に進まず、当時静岡県清水にあった商船学校への進学の道を選んだからである。

父の同級生の中には医師や弁護士になった者も居たが、商船学校へ進学した父に前後の就職口は見つからなかった。函館に戻れば、実家の本家の仕事に就くことができたはずだが、温暖な静岡での生活を体験した父にとって、函館の寒さは耐えられない苦痛だったのだろう。
一時は、青函連絡船の運行会社に職を求めて応募したのだが、なかなか採用にならなかったのでさっさと諦めると、東京へ嫁いでいた叔母を頼り、僅かの貯金を持って東京へ出てきてしまったのだった。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?