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「聖徳太子非実在説」について

 少し前、聖徳太子非実在説が話題になりました。しかし学者の間でも、さまざまな意見があって、定説化しているわけではありません。

 最古のまとまった史料である『日本書紀』における聖徳太子像が、厩で生まれた、10人の訴えを聞き分けた、飢えた乞食を聖と見抜いた、など、神秘的なのは確かですが、それは当時の偉大な人の描き方で、だからといって聖徳太子が実在しなかったことにはならないと思います。
 現代でも、マスコミが報道する著名人の姿と本人が一致している保証はありませんし、だからといって、その人が実在しない、ということにはなりません。

 『日本書紀』に法隆寺火災の記事があり、現在の法隆寺は、その後に再建されたものだということが確定していますが、聖徳太子が建てたという若草伽藍の跡が発掘されています。
 聖徳太子が住んだ斑鳩宮は、夢殿がある東院伽藍にあったといわれ、伽藍建立前の宮殿の跡が発掘されています。

 聖徳太子の作という『法華経』の注釈書『法華義疏』は、太子自筆本と伝えられるものが現存しています。

 太子は母親と妃の膳部郎女と一緒に葬られましたが(磯長廟・大阪府叡福寺)、かつては開口していた廟の棺の一部と思われるものが近くの寺に伝えられています。

 蘇我馬子が建てた飛鳥寺(元興寺)には、釈迦牟尼仏像(飛鳥大仏)が創建当初の位置から動かず残っていて、太子もその前で、手を合わせたことでしょう。
 古代の人物としては、聖徳太子は、むしろ、直接間接の資料がよく残っている存在です。

 現代では、聖徳太子というと、多くの方は憲法十七条の「和」の精神を思い浮かべ、年配の方だと、お札の顔というイメージが強いと思います。
 前近代では聖徳太子というと、何よりもまず、日本に仏教を広めた観音菩薩の化身というイメージでした。江戸時代には儒者から、仏教を導入して日本を悪くした、と非難されるほどでした。
 明治になって、神仏分離、廃仏毀釈がおこなわれ、仏教色のない聖徳太子のイメージが作られ、今に至っています。

 この近代的な聖徳太子像とはまったく違う太子を描いたのが、山岸涼子『日出処の天子』です。
 霊的な素質があり、周囲からは理解されず、孤独な聖徳太子像は、『日本書紀』を含む、前近代の聖徳太子像に近いものでした。

 早稲田大学エクステンションセンター中野校における公開講座「聖徳太子と太子信仰」(11/14、11/21、11/28、12/05)では、太子の実像や実在か非実在かを追求するのではなく、伝説の部分も含めて、日本人にとって聖徳太子がどのような存在であったのかを探り、日本文化に与えた影響を紹介します。


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