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日本文化の諸相:「日本は自然に恵まれている」か?

(2017年7月1日の慈母会館の勉強会より)

 日本は自然に恵まれている、という意見に賛成する方は多いと思います。学校教育でも「日本の自然は四季の変化に富み、恵まれている」ということを教えることになっています。
 たしかに、日本の自然について思い浮かべると、春には桜が咲き、夏は海水浴やスイカ、プール、秋はモミジの紅葉、冬はスキーや雪ダルマ、なるほど、自然に恵まれている、と実感されます。

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 しかし、実際には、桜の咲いている期間はごくわずかで、夏の海水浴までには、かなり長い時間があります。おまけにその間には、(最近は気候変動の影響か短くなってきていますが)じめじめした梅雨の期間もあります。
 私たちの頭が「日本の自然」を思い浮かべるとき、毎年体験しているはずのそれらのことは、素通りされているのです。

実際には自然災害の多い国でもある

 実際のところ、日本は自然災害の多発地帯でもあります。これが正確な統計なのかは知りませんが、世界の地震の1割は日本でおきる、と言われます。
 去年は熊本で大きな地震がありましたし、東日本大震災では、東北地方が大きな打撃を受け、復興にはまだかなりの道のりがあります。その前には新潟県で、20年前には阪神淡路大震災があり、神戸などが大きな被害を受けました。それだけでなく、火山の噴火もありますし、台風の通り道で、毎年、道路が寸断された、土砂崩れで家が埋まり犠牲者がでた、という報道があります。
 私たちが抱いている自然イメージと、実際に体験されている自然環境には、かなり落差があるのです。

「四季」イメージと神のまつり

 四季のイメージが確立されたのは、平安時代の『古今和歌集』においてです。そこに、自然を悪くいう言葉はありません。京都は盆地ですから、実際の夏は当時もかなり暑苦しかったと思いますが、「暑くてうんざり、早く涼しくなってほしい」などという言葉は決してでてきません。
それは、和歌が、神と言葉をやりとりするものだったからです。
 民俗学者は、日本の古い信仰は、秋田県のナマハゲや南西諸島のまつりに面影を残すようなものだったと考えています。恐ろしい存在を、迎え、もてなし、また送り返す。縄文時代の遺跡から、数は少ないですが、土面が出土していて、縄文時代には日本各地でそのようなまつりがおこなわれていた、と推測されています。

 なぜ、そのような恐ろしい存在を迎え入れ、もてなすのか?
 そのような神々は植物を身にまとっており、自然の力を象徴している、と考えられています。
 日本の自然は、時に人の命を奪うこともある、おそろしいものです。しかしその一方で、その自然の力なしに、私たちは生きていくことはできません。
 古代の人々は、そのような自然に対する対処法として、普段は人間世界の外に押し込めておいて、その代わりに、決まった日にやってきたら大歓迎し、もてなし、満足して、お帰りいただこうとしたのです。それが神とそのまつりのはじまりです(『常陸国風土記』行方郡のまつりの開始の記事)。
 まつりは、自然の力に制約を加える、代償行為なのです。
 ですから、私たちは自然の力を象徴する神々を迎える際に、神々をほめたたえ、感謝の気持ちをささげます。
 そのようなまつりの言葉に起源があるため、和歌において、自然を悪くいうということは、絶対にない、ほめたたえることしかないのです。いくら暑くてうんざりでも、それを歌にすることはないのです。

 それが、日本人の自然イメージと、実際に体験している自然環境にずれがあり、しかもそのことを自覚していない理由です。

日本人と宗教

 宗教というと、キリスト教のような確立された教義があり、それを信仰するものというイメージをもっている人も多いですが、それだけが宗教というわけではありません。
 日本人の多くは無宗教だといいますが、(さすがにNHKはやっていませんが)民放の多くの朝のテレビ番組では、今日の運勢などの占いコーナーがあります。毎日、今日の占いを見て会社や学校に行く人の、どこが無宗教なのでしょうか。
 宗教には、キリスト教のような、確立された教義があり、それを信仰する、世界宗教と呼ばれるものと、かならずしもそうではない、日々の生活に密着した、エートスとなっているものがあります。
 宗教が生まれたのは、人が他の動物と違い、死を意識する、死んだ人は単に存在していないのとは違う、と捉えることがきっかけだと考えられています。まだ文字のない化石人類の時代から、人は亡くなった人を埋葬してきました。
 この意味で、人が宗教を持つということは、人間が文化を持つということと、ほぼ同義です。法律で、誰も被害者として名乗りをあげることのない殺人がもっとも重い罪とされているように、人間の文化は、死んだ人は単に存在していないのとは違う、という前提の上になりたっています。
 私たちが無意識的におこなったり、考えたりしていることの多くには、見えない宗教性が隠れているのです。



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