年末に太陽を見て思うこと

 人間は暇ができるとよからぬ妄想をするものである。私だって御多分に洩れず、時間ができると、哲学者っぽいことを考えてしまう。

 ついこの間も、といっても昨日一昨日くらいの話であるが、電車に乗りながら年末気分に酔いしれていた。

 車窓から流れる景色を眺めているちょうどその時、空に輝く太陽が私の注意を引きつけた。

 私はどうも昔から、青空や夜空を仰いだり太陽や月を眺めたりする癖があった。それらは心地よさの対象であるとともに、畏怖の対象でもあった。

 太陽を眺めていると、不思議と年末気分が薄くなってゆく。むしろ、時間そのものに対する感覚をも溶解していく。太陽が東から登り西に沈んでいくという自然法則は、人類が誕生するはるか昔より行われている紛うかたなき反復であり、工場のロボットが運ばれてきた荷物を右から左へ移すが如くそこになんらの意義を見出すこともなく、あくまでもAはBでBはCならAはCであるという三段論法的法則に従っているに過ぎない。

 そこには、昨日は今日であり今日は明日であるという事実しかないような気がする。

 つまり時の流れは存在せず、むしろ時流を構成する時の点とでもいうべき「今」という瞬間のみがそこにはある。

 時間を人の列だと考えてみると、列を成すには一人ではもちろん不十分で、三人、五人、十人と列をなす人数が多くなるにつれて、「列」が色濃く作りあげられる。

 時間も同じで、一秒のみがあってもそれは時間にはならないが、それが累積し、一分、五分、十分となってゆけば、次第に時間という「列」を作り上げるのである。

 従って、時間を感じるためにはまずは時を刻まなければなるまい。私たちは時を正確に刻むことで時の流れを表面化した。

 時間が生み出されれば、漠とした時の流れを時間単位で明確に区切り、今日は今日であり、それより前は昨日、それより後は明日、という考え方ができるようになる。つまり反復からの脱出である。

 そして、一日を区別できるようになれば、暦ができる。暦ができれば、誕生日のような特別な日も認識できる。季節によって区切りをつけて、年末年始のようなイベントができ上がる。

 私たちが昨日も今日も明日も、そして、去年も今年も来年も、紛うかたなき反復と感じないのは、時間があるからだ。その反面、私たちは時間に拘束されてもいる。現代人はますます忙しなく生きるようになっている。タイムパフォーマンスの登場だ。

 空に輝く太陽は年末なぞ知る由もない。そのようなことを考えると、年末気分もいささか冷めてしまうものである。一方で、時間に縛られていない太陽を見ると、私もなんだか時間から解放されたような心地がして、心がじんわりと温かくなるのである。

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