【短編小説】佳話でありますように 一話
出会うべき人に出会えるように神様はこの世界を創ってくれている。出会うべき時に出会えるかはその人の運次第で、そうして巡り会えた時に人はそれを運命と呼びたくなるのだろう。そんなことを考える、ひと夏の出会いについて記しておきたい。いつか佳話として読み返す日が訪れることを期待して。
ぼくの目がはじめて彼女の姿を捉えたとき、病院で胸にはりつけて心臓の鼓動を感知する機械や、指先につけて血中の酸素濃度を計測するようなそういった類いのものがついていなくてよかったと思う。きっとアラートが鳴り響いてぼくの動揺のようなものが一瞬にして知れ渡っていただろう。心臓は100メートルを全力疾走したあとのように突然慌ただしくなり、息を飲むばかりかしばらく呼吸をすることも忘れていた。それほどまでにただただ美しかった。人に対してその容姿でなにやら負の感情を抱くことは望ましくないことだと幼いころから教えられ、大人になって反対に容姿だけで正の気持ちになってしまうこともなぜか同じく不純であるかのように言われることがあることに気付いた。人は人を内面をもって、心というものをもってして好きになるべきだと信じたい人たちがいる。しかし一般的に考えても、ひと目見た瞬間に心を揺さぶられた相手の内面なんてものは少なくともしばらくは勝手にフィルターごしに見られてしまう。そしてぼくもその例に漏れず、少し会話をしただけでその心も美しい人だと思った。つまりぼくは彼女にひとめぼれに近い感情を抱いていた。
彼女は話を聴くことが上手だったし、特段秀逸なオチのない話でもよく笑ってくれた。そしていつもぼくのことを褒めてくれた。決して大きくない一重の目を優しい目だと言ってくれた。笑ったときの目尻のしわが好きだと言ってくれた。決して誰も理想とはしないだろう丸っこい鼻も色気のない唇も少しエラの張っている顎もそこが一番お気に入りだと言ってくれた。男らしさも清廉さもないと思っていた手を綺麗だと言ってくれた。そうなるといわゆるアラサーという領域に足を踏み入れ、うっすらと腰骨の上に乗っかかり自己主張をするようになってきた肉塊がひどく恥ずかしいものに思えてきた。女性は褒められるほどに美しくなるというのはもしかすると男にも通じるのかもしれないなんてことを考えながら、それを削り取ることに精を出し、また聡明な人間であることをせめて装えるように本を手にとるようになった。彼女はその私の涙ぐましい過程に目を向けて褒めてくれた。大人になって成果だけが自己の価値を決定するように思える日々を送っているなかで本来なら知る由もない姿に思考を巡らせることが自然とできる人なのだと知り、そのことが彼女をより際立たせた。
いつからかふたりで会うようになった。どちらからともなく連絡先を交換した。それからというもの彼女が仕事を終える時刻に間に合うように自分の職場を飛び出すようになった。残した仕事は次の日の朝済ませた。それが午前三時四時になろうと全く問題なかった。むしろくらくらするような朝の日差しや憂鬱なほど目指す場所に進まない通勤時間を回避できることは性に合っていたと思う。それでも彼岸を過ぎてなお日中の太陽は余力たっぷりに遠慮なく皮膚を貫くように差し込んではくるし、そうして一日仕事をした勲章として私のシャツがかぐわしい匂いを放つ。彼女に会う前にシャワーを浴びてその日の万全の状態でいたかったが、それよりも早く彼女を見つけてできるだけ長い時間を過ごしたい思いのほうが強かった。爽やかなレモンの香りのする香水を全身に振りかける。十年来の古びた愛車を毎回洗車して、車内には自分にふりかける香水よろしく消臭剤を充満させた。そうこうしているとこれまでにこの車が乗せた誰かが残していった何によるとも分からない染みに対して無性に腹が立った。しかし、彼女の姿が視界に入った途端にその感情は朝霧のように晴れてしまう。彼女は私の車を見つけると、目尻を下げて近寄ってきてくれるが、いつもすぐには乗ってはこなかった。ノックをする仕草をする日もあれば、口真似で「乗ってもいいですか」と尋ねてから扉を開けることもあった。彼女が親しくなってからも同じように「失礼します」と言いながら、遠慮しつつもどこかとても楽しそうに乗り込んできてくれることが嬉しかった。そして隣に座る彼女の横顔は信じられないほどに美しかった。百人の画家に女性の美しいと思う横顔を描いてほしいとお願いしたらきっとほとんどはこのようなまつ毛の長さになって、このような瞳の輝きになって、このような鼻の高さになって、このような顎のラインになるだろうなと思った。むしろそう描かないのはとても変な人間できっと現世では大成することがない画家なんだろうとも思った。
いち段落、
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