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山崎るり子「杖」について —延々と続く若返りと老化—

    杖 山崎るり子

  「甘いものが好きになってね
  大きいくろあめ
  あれは えー 205円
  いや、あー 205円か
  一袋がね 一日で終わっちゃう
  二つ口に入れるのね
  あめが口の中で ゴロヤロゴロヤロしてね
  甘く あまく 溶ける
  あーいった小さいもののお金が 意外にかかっちゃうね
  ご飯炊くのも上手くなったよ おいしいよ
  お鍋でね
  火はずーっと同じでいいの
  ふいたら蓋取って
  周りの泡がジューウとしてなくなって
  まん中の泡も消えてきて
  ピチピチピチいってきたら
  蓋して火を消すの
  ころあいがむずかしい
  おいしく炊けるよ とてもおいしい
  なんでも自分でやるよ
  この杖も作った
  赤い実がなる木だったの
  持つところね 根っこだったところ
  根っこにぎりしめてね
  ゆっくりゆっくり行くよ
  では お先に」

  おじいさんは杖を持ちかえて
  病院の待合室のドアを開ける
  外はギラリ真夏
  若者は手ぶらで
  スックスックと足長のGパンツ
  感光されて
  もう
  見えなくなってしまった


 今から綴る、私のこの詩に対する解釈は、ひどく荒唐無稽なものに思えるかもしれない。しかし、最もシンプルな形に読み解くということを心がければ、このような読みになるはずである。そのことを念頭に置いて、以下の文章を読んでほしい。
 さて、この詩を読むと、たくさんの疑問が頭をよぎる。突然登場する「若者」とは、一体何者なのか? また、「感光されて」、「見えなくな(る)」とはどういうことか? さらに、作中の「おじいさん」は、一体誰に向かって喋っているのか? —今回は、これらの疑問に対する私なりの答えを提示することで、この詩への解釈としたい。
 さて、まず、「若者」の正体が誰なのか、という問題についてである。「若者」についての描写で、「スックスックと足長のGパンツ」という記述がある。これは、「若者」がシャッキリと立っている様子を暗示していることから、この描写は「おじいさん」が杖に寄り掛かって立っていることとの対比として登場するものであると分かる。この、「おじいさん」の様子と対照的な「若者」の姿は、やがて「感光されて」、「見えなくな(る)」。「感光」とは、物質が光を受けて、化学変化を起こすことである。この「若者」は、どうやら何らかの不思議な力によって、光を受けることで変化し、「見えなくなって」しまったらしい。
 では、その「光」とは、何の光なのかというと、その直前に登場する、「ギラリ」と光る「真夏」の太陽のそれなのだと分かる。太陽の光を受けて、「若者」は「見えなくなっ(た)」のである。
 しかし、それならば、病院の待合室のドアを開ける「おじいさん」も、この太陽光の影響を受けているのではないだろうか。なぜなら、「おじいさん」がドアを開ける、という描写の直後に、「外はギラリ真夏」という記述があるからだ。ここで、私は、一つの仮説を立てたい。それは、「おじいさん」こそが、この「若者」の正体である、という仮説だ。なぜそのような説が成り立つのかというと、太陽の光を受けて、「若者」が「見えなくなっ(た)」のならば、「おじいさん」は、同じく陽の光を浴びて、「若者」になった、と考えられるからだ。
 つまり、ここでは、「おじいさん」がドアを開けると、陽の光が射して、その光線のあまりの強さに、彼はやがて「若者」になり、それから「見えなくなっ(た)」、という一連の現象が描かれているのである。「若者」の正体が「おじいさん」ならば、シャッキリ立つ前者の姿と、杖に掴まり歩く後者の姿が対比されているのにも合点がいく。
 さて、次に明らかにしなければならないのは、「感光されて」、「見えなくな(る)」とは一体どういうことかという問題である。しかし、これについては、どうやら作品全体を見渡さないと、解けないらしい。また、「おじいさん」が喋っていた相手は一体誰なのか、という問題についても然りである。
 ここで、この二つの問題について考える際に、手がかりとなる、ある一つの事実がある。それは、どうやら「おじいさん」は、彼の妻である人物(ここでは、「おばあさん」としたい)を、既に亡くしている、という事実である。そのことは、「おじいさん」の会話の内容から、推測することができる。彼は、作中で、「ご飯炊くのも上手くなった」とか、「なんでも自分でやるよ」と口にしている。この会話から、彼が、現在は一人暮らしをしていることがまず分かるが、その上で、かつては彼にも連れ合いがいたのではないかと考えることができる。老人にとって死は身近であり、「おじいさん」が「おばあさん」に先立たれる、という状況は、何ら不自然ではない。
 しかし、ここで、誰かが「死ぬ」、あるいは誰かが「消える」という現象に、私たちは既視感を覚えないだろうか。作中には、他にも、人が「消える」という記述が登場しなかっただろうか。
 —そう、作中で他に「消えて」いるのは、まさに「おじいさん」その人である。彼は、太陽の光に「感光されて」、「見えなくなって」しまった。とすると、「おばあさん」も、同じような方法で、この世から消えたのだとは考えられないだろうか。
 ところで、この詩が掲載されている詩集のタイトルは『おばあさん』というものである。そのため、この作品で、表立っては登場しない「おばあさん」が、実は重要な役割を担っていた、という展開は、十分に考えられることだ。さらに、私はもう一歩踏み込んで、「おばあさん」こそが、この詩の話の中心であり、「おじいさん」はその対となる存在として登場するにすぎないと読みたい。
 さて、「おじいさん」が「見えなくなっ(た)」という現象について、もう少し考えを深めよう。「おじいさん」は、消える前に、「若者」になっていた。この時、「おじいさん」の若返りが描かれていることに注目すべきである。そうすると、「消える」という現象も、若返りの延長上にあると考えることができる。であれば、「消える」という現象は、実は「生まれる前に戻った」ことの結果なのではないだろうか。
 そう考えると、「おじいさん」をこの世に残して去った「おばあさん」も、実は“若返り”の結果、生まれる前に戻って、存在そのものが消えてなくなってしまったのだと言える。
 では、この詩は、若返りの果てに消えた「おばあさん」の後を追って、「おじいさん」も消えてしまった、という、それだけの内容なのだろうか。私は、そうではないと思う。作中には、もう一人人間が登場する。それが、病院の待合室での「おじいさん」の話し相手である。私は、この話し相手は、一人の幼い少女なのではないかと考えている。そして、そう考えるのには根拠がある。
 「おじいさん」の話し相手の正体は、実は「おばあさん」の生まれ変わりである少女なのではないだろうか。いや、生まれ変わりというと、語弊がある。先程、「おばあさん」は、若返りの果てに消えて無くなってしまった、と述べた。この「若返り」の作用は、行き着くところまで行き着いたら(つまり「おばあさん」の存在が無になったら)、今度は「成長」の作用に切り替わるのだと考えられる。この「成長」の作用が機能して、「おばあさん」は、ゼロからまた歳を取り始める。そして、ある年齢まで達したら、再び「若返り」を始めるのだ。この「成長」と「若返り」の作用は、「おじいさん」にも同様に備わっている。ただし、「若返り」は太陽光によって、一瞬でなされるが、「成長」は、一年ごとに一歳年を取る、普通の速度のそれである。そして、この「成長」は、「老化」と言い換えることが可能だ。
 だが、「おばあさん」は、「おじいさん」よりも先に、この世から消えた。そこで、二人の「若返り」と「老化」には、わずかにタイムラグがある。そのタイムラグがどれだけの時間差なのかは、作中の「おじいさん」の会話から推し量るしかない。私は、これを五年ほどであると考えた。「おじいさん」は、妻に先立たれてから、やっと家事に慣れた、というような口ぶりで話している。これは、「おばあさん」が死んで、数年経った日の出来事であると考えられる。私は、それを大体五年ほどではないかと推測した。
 仮に五年だとすると、「おばあさん」は、五年のタイムラグの分、早くこの世に生まれているわけである。すると、五歳の少女であることになる。そして、これが、「おじいさん」の話し相手だと考えると、作中には余計な人物が登場しないことになり、話はシンプルに纏まる。やがて、「おじいさん」も赤ん坊としてこの世に生まれ、成長した彼はまた、五歳年上の「おばあさん」と出会うだろう。そして、年を取り、病院に通うようになる。その病院の待合室のドアを開けると、太陽の光によって二人は、タイムラグこそあれど、また若返ってしまうのだ。
 以上より、この詩は、「おばあさん」と「おじいさん」による、延々と続く若返りと老化の物語である。この無限の繰り返しに、奇妙さや無気味さを見出す人もいるかも知れない。だが、老いというものを(そしてそれを通して生と死を)、こんなに理知的な捉え方で捉える詩人は稀ではないだろうか。普通は老いの心境などを感情的に綴る文章になってしまう気がする。その意味で、山崎るり子の老人観は、極めて斬新であると言えよう。


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