井坂洋子「くもの頭脳」を読む

  くもの頭脳 井坂洋子

 少年の目は
 ひんやりしたホコラのようだった
 人のことばが
 頭脳に溶けていかないのだ
 土ぐもをとろうよ、
 と少女はよそのうちの縁側から
 はだしでおりたったが
 彼がついてくるはずもない
 立木の湿った根もとで
 破れやすい袋をつまみあげる
 際限もなく
 巣をつくろうとする生きものが
 底で 手足を縮め じっとしていた
 おい、
 というおとなの声がし
 振り返ると縁側に背の高い男がいて
 そとであそべ、
 と少年を突き落とした
 彼はそれっきり動かない
 顔ごと泥に伏して
 起こしてくれる誰かがやって来ないよう
 泣き声もあげなかった
 土の中のように
 絶望はあったかいのだろうか
 その夜
 少女は彼を抱きしめる夢をみた
 ひんやりしたホコラに一人で入っていき
 欲望の発火をさがした
 土ぼこりが降ってきて
 奥は
 形のない堆積がうごめき
 泣き声の周期をもった機械音が
 うわぁん うわぁん と反響し
 耳をおさえて走った
 光の射してくる少年のふたつの目の窓の
 うすい幕に
 そとの影絵が波うって映っていた


 この詩に登場する少年には、知的障害があるようだ。そのことは、「人のことばが/頭脳に溶けていかないのだ」という二行から分かる。そして、作品には、この少年と仲良くしたいと考える少女も登場する。彼女は少年を、土ぐもをとる遊びに誘う。彼女はよそのうちの縁側から庭に降り立ったが、少年は少女の言葉が分からないため、ついていかなかった。
 少年が、誰かに「おい」と呼びかけられたため、振り返ると、縁側にいた背の高い男に「そとであそべ」と突き落とされた。この男の行為には、単に少年がよその家に勝手に上がり込んだことへの非難だけではなく、知的障害を持つ少年を疎ましく思う気持ちも含まれていたのだろう。つまり、障害のある少年が差別され、暴力を受けるという、これは緊迫したシーンなのである。
 突き落とされた少年は、顔ごと泥に伏し、それっきり動かない。誰かが助けに来ないようにと、彼は泣き声も上げなかった。語り手は、彼にまつわる以下のような問いを読者に投げかける。

 土の中のように
 絶望はあったかいのだろうか

 この問いは、何を意味しているのかというと、暴力を受けても泣き声一つ上げない少年の姿に、知的障害を持つ人は苦痛というものを感じないのだろうか、と不思議に思っているのである。「絶望はあったかい」というのは、絶望を心地良く感じているということであり、つまりは苦痛を感じない、という意味を持っている。このような語り手の感想は、一見残酷に思える。しかしこれは、暴力を受けても泣き出したり、騒いだりすることのない少年の姿に我々読者が抱く、率直な疑問を代弁してもいる。ここで、地に伏して動かない少年の姿は、まるで巣でじっとしている土ぐものように感じられ、タイトルの「くもの頭脳」とは、少年=土ぐも、という比喩から来ているのかと、まずは思わせる。
 では、彼は本当に苦痛を感じていないのだろうか。作中では、この問いに対する答えも用意されている。その答えは、否、である。
 作品後半を見てみよう。少年が縁側から突き落とされた夜、少女は夢を見た。それは、彼女が少年を抱きしめる夢である。「ひんやりしたホコラに一人で入っていき/欲望の発火をさがした/土ぼこりが降ってきて/奥は/形のない堆積がうごめき/泣き声の周期をもった機械音が/うわぁん うわぁん と反響し/耳をおさえて走った」とあるように、彼女は不思議な「ホコラ」に入る。それはまるで、土ぐもの巣のような場所だ。巣の奥にはくものような「形のない堆積」がうごめいていて、よく洞窟の中に入るとそうなるように、音が反響して聴こえてきた。彼女は驚いて、耳を押さえて出口まで走って逃げた。
 さて、この次の箇所が謎である。「光の射してくる少年のふたつの目の窓の/うすい幕に/そとの影絵が波うって映っていた」とある。少女は一人で「ホコラ」に入ったのに、なぜここで少年が登場するのだろうか。
 その答えは、冒頭にある。

 少年の目は
 ひんやりしたホコラのようだった

 つまり、少女が夢で入った「ホコラ」は、少年の頭脳の中だったのである。その頭脳の入り口として、ここでは少年が外界を捉える器官としての「目」が設定されているのだ。少女が、一人で「ホコラ」に入ったのに、彼女が「少年を抱きしめる夢」を見ていた、というのは、ホコラ=少年の頭脳、だからなのである。
 ここで、その少年の頭脳の中身を見てみよう。「形のない堆積」とは、おそらく彼の苦しみのことである。彼は言葉が理解できないため、苦痛は明確な形を取ってはいないが、確かに彼の中に降り積もっている。それは、彼が様々な人間から差別を受けてきたからであると言える。確かに、彼は、縁側から突き落とされた時に、起こしにきてくれる人が来ないように、泣き声を上げなかった。それは、彼がこれまでに暴力を受けて誰かから助けられる、という状況を、何度も経験しているからではないだろうか。
 そして、暴力を受けても泣くことのなかった彼の悲しみが、彼の頭脳の中では迸っていることが分かる。それは、先程説明した、「ホコラ」での音の反響である。「うわぁん うわぁん」という反響音は、「泣き声の周期をもった」と記されている。確かに、「うわぁん うわぁん」という擬音語は、反響する音を表すものでもあるが、人の泣き声を表すものでもある。ここで、知的障害を持つ人は苦痛を感じないのではないか、という考えが否定される。他人には聴かれなかった彼の泣き声は、彼の頭脳の中で痛切に響いているのである。
 さらに、「絶望はあったかいのだろうか」という問いを投げかけておきながらも、「ひんやりしたホコラ」という表現を用いることによって、「絶望は決して温かくはない。冷たいものだ」という事実、つまり「苦痛が心地良いということなど決してない」という事実を表している。これも、「知的障害を持つ人たちは、それを言葉では表さないだけで、確かに苦痛を感じているのだ」という主張に繋がっている。
 そして、少年の目(「窓」)の「うすい幕」に映る、「そとの影絵」とは、彼の外界の事象を表している。また、先程私は、少年=土ぐも、に喩えられていると述べたが、作品は一見そう思わせているけれども実はそうではなく、少年の頭脳=土ぐもの巣、に喩えられているのである。
 以上より、この詩は、知的障害のある人々の苦しみや哀しみを掬い取っている。「うわぁん うわぁん」という擬音語の持つ二重の意味を利用するなどの優れた言葉の技術によって、それは為されている。

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