山崎るり子「親子丼」について —台所の功罪—
親子丼 山崎るり子
困ったことは
どしゃぶりの雨が
降り続いているのに
少しも濡れずに
親子丼を食べていることです
ライラックの葉陰で
きのう羽化したキアゲハが
ふるえているのも
知らずに
この詩の内容は、一見、分かりやすいものとなっています。おそらく庭に植わっていると考えられるライラックの木の葉陰で、前日に羽化した一匹のキアゲハがどしゃ降りの雨の中、震えている。その、キアゲハが震えているという事実を知りもしないで、人間(おそらく複数)は、自分たちは少しも濡れずに温かい親子丼を食べている。そのような人間たちの行動を「困ったこと」として指摘するというのが、この詩の内容であると、まずは理解できます。
しかし、そのような理解の許では、この詩はつまらないものに成り下がってしまいます。この解釈では、この詩が「人間の心は冷たいのだ」と、ただ人間を批判しているだけの作品であることになります。これでは、読者は、無理矢理キアゲハに同情しろと言われているようで、説教臭い作品だなあと感じてしまうでしょう。
では、一体どのように理解すれば良いのでしょうか。ここで、私たちが見落としている事実が一つあります。それは、なぜ人間たちは「少しも濡れずに」親子丼を食べることができるのか、という問題です。なぜ、濡れないのかと言えば、それはもちろん、屋根があるからです。では、この人間たちは、どこにいるのか? それは、食卓というもののある台所ではないでしょうか。
その台所は、まずは私たちの住んでいる家の中にあります。家というものがあるために、私たちはどしゃ降りの日でも濡れずに済む。さらに、その家の中でも、特に台所という場所で、私たちは温かい親子丼を食べることができるのです。
この台所という場所について、より深く考えてみましょう。食卓を含む台所は、私たちが団欒するために設けられている場所です。言い換えれば、私たちが、より快適に、より心地良く過ごすためにある場所なのです。
しかし、私たちが台所で心地良く過ごそうと試みれば試みるほど、その同じ時間に違う場所で辛い思いをしている者の存在(ここでは昆虫のキアゲハ)のことは意識の端に追いやられ、忘れ去られていきます。つまり、台所という場所は、そのコンセプトからして、「他者を思いやる」という人間にとって本来大切であるはずのことと、相容れないものであるのです。
もちろん、台所は、その中にいる人にとっては、とてもありがたい場所です。その意味で、台所という場所は、功と罪の両方を併せ持っています。しかし、私たちは普段、台所を快適な場所であると認識し、その「功」にしか注目していません。この詩は、その「罪」の部分を指摘しているのです。
以上より、台所とは、人間に、その場にいない存在に対する思いやりの心を忘れさせる場所であるというのが、この詩のテーマだと言えます。
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