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山崎るり子「道」について  —春を率いる「おばあさん」—

   道 山崎るり子

  ああ あのおばあさんなら知ってるよ
  春のはじめにああやって
  冬の間にできたアスファルトの道を
  足を引きずりながら
  杖でたたきながら

       トトントン トン
       ゆっくり行こう
       あわてて行く道じゃない

  これは内所の話だけれどね
  眠っている間に閉じ込められた
  地面の下の虫たちと
  一緒に歩いているんだって
  かえるやみみずやありんこや
  せみやかなぶんの幼虫
  みんな連れて行くんだって
  土のあるところ 草のあるところ
  木のあるところへ

       トトントン トン
       ああゆっくり行こう
       あわてて行く道じゃない

  しいーっと唇に当てた人さし指のように
  まっすぐに伸びた道
  あの道の下に
  杖の音をたよりに進む
  虫たちの行列
  細い一すじの道
  いつか
  春らんまんの光の中に
  続く道


 この詩は、春の初めに一人の「おばあさん」が、冬眠から目覚めた虫たちを引き連れて歩く、という不思議な光景を描いた作品である。虫たちは、地下で冬眠している際に、新しく舗装されたアスファルトの道路の下に閉じ込められてしまったのだと、語り手は言う。「おばあさん」は、そのような虫たちを、「土のあるところ/草のあるところ/木のあるところへ」連れて行く存在なのだと、語り手は説明している。
 それにしても、虫たちを引き連れて歩く存在が、なぜよりにもよって「おばあさん」なのだろう。「おばあさん」とは年老いた女性のことを指すため、「いつか/春らんまんの光の中に/続く」ような行列を率いるのに相応しい存在であるとは、到底思えない。「おばあさん」の枯れたイメージと、初春の風景は、まるで似合わない。
 しかし、そう思ってしまった私は、もう既に作者の術中にはまっているのだろう。なぜなら、作者はここで、「おばあさん」に対する世の中の認識を、新しいものに塗り替えようと企んでいるからだ。読者に、「なぜ『おばあさん』が春の行列を率いるのか」と思わせることが、この詩が成功するための第一歩なのである。
 では、その作者の企みとは、具体的には、どのようなものなのか。それは、「おばあさん」こそ、「春のはじめ」の虫たちの行列を率いる存在として相応しいという作者の主張について考えてみれば分かる。「春のはじめ」の虫たち、とは、言い換えれば、冬眠から目覚めた虫たちである。作者は、「おばあさん」を、冬眠から目覚めたような存在として捉えているのではないだろうか。
 どういうことか、以下に説明しよう。この「おばあさん」は、もうすぐ、老いによって死ぬ存在である。しかし、作者は、人間は(いや、人間を含めて生きとし生けるものは全て)、死んだらまた新たな命として生まれ変わると考えているのではないだろうか。生まれ変わった後の「新たな命」が、「春らんまん」の時期を生きる虫たち、として表現されているのならば、生まれ変わる前の、死に近い「おばあさん」は、そこへ向かう過程の存在として理解されるべきである。つまり、冬眠から目覚めた頃の虫たち、に相当するわけである。よって、「おばあさん」は、これから「春らんまん」に向かう存在であり、初春に相応しい存在であるのだ。
 このように、この作品は、年老いた「おばあさん」を、次の命として新たに生まれる前の段階として認識している。この認識に、この詩の新しさがある。

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