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あまりにも正しいこと

小学校時代の私の得意科目は道徳だった。

道徳の時間は誰よりも早く自由記入のプリントを書き終えていたし、先生はいつも私の答えを最後に訊いてきたし、通知表にも「道徳がよくできます」と書かれた。

ある時、体操着を日曜の夕方に母親に渡して、こんな風に叱られたことがある。

「あんた道徳が得意なんじゃないの?!だったらなんで人の気持ちが考えられないの?!」

私はちょっと反省しながらも、その時冷静に「確かにな」と思った。そして小学5年生の私は、自分の道徳という科目への取り組み方が間違っていることに気づいた。

私の道徳の問題の解き方はシンプルであった。

突然模範解答が降ってくるのだ。理屈もなく、「こう答えればいい」という答えがすぐさま降ってきていた。

だから人の気持ちを想像したり、誰かの立場になって考えたり、そういうことは一切していなかった。唯一想像していたとすれば、「先生はどういう答えを欲しがっているか」といことぐらいだ。

そしてその答えが正しいと確信する決め手は、その答えを口にして自分で気持ち悪いと思うかどうかであった。

人は誰しもポジティブなことよりネガティブなことのほうが答えやすい。例えば一番好きな食べ物は?と訊かれると迷ってしまうが、一番嫌いな食べ物は秒で答えられるだろう。

要するに、私は道徳が嫌いだったのだ。嫌いだからこそ、得意だったのだ。

何故こんな厨二くさい話をつらつらとしたかといえば、どんなに世の中にとっての「正しいこと」がアップデートされようと、私は「正しいこと」が気持ち悪いということが分かったからである。

うちにはテレビが無いので、TVerで逃げ恥の新春SPをみた。

素晴らしかった。なんと正しいことか。すべてがアップデートされた価値観のもと正しかった。なんの破綻もなく、モヤモヤしている人たちのモヤモヤを全て拾い上げていた。

素晴らしい。その一言に尽きる。

が、私はなんとなく、違和感を持った。

全て正しかったはずなのに、何故かモヤモヤする。なんだろうこのモヤモヤは。どこかで感じたことがあるような気がす

あーーーーー!!!!!!!

となった次第である。

きっと10年後か20年後、あるいはもっと近い将来、道徳の教科書にはああいう話が載っているだろう。

あれが新しい正しさとして、世に広まって欲しい。そうすれば生きづらい人は随分と減るだろう。

非体制だと思っていた思想が模範解答に昇進してしまった私は、「地球は人間を必要としていない」という、新しい非体制思想に乗り換えようと思う。

そしてそれが模範解答となる頃に、また同じ話をしようと思う。

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