見出し画像

【近日発売】甲南読書会ZINE『回遊』一部公開 「読書会とテーブル」

甲南読書会に参加している院生・学生・教職員・地域の方などが集まって、「多様なものを、多様なままに」つくる雑誌『回遊』。
本記事では『回遊』発行の経緯と、創刊号に掲載予定の1つのコラムを丸ごと紹介しています。


発行の経緯

広報活動を頑張っていることもあって、甲南大学内では少しずつ知名度があがってきた甲南読書会。
しかし、その中身はなにやらよく分からないままで、「読書会ってなにをするの?」「どんな人が参加してるの?」「そもそも甲南読書会ってなに?」など。様々な角度から種々の質問を受けることが増えてきました。
(どれも簡潔的に答えることが難しい質問ばかりです・・・・・・。)

私たちとしても、こんなに楽しく面白い活動をしているのだから何か記録に残したい!と思ったこともあり、この度ZINEという形で『回遊』を発行することになりました。

ZINE(ジン)というのは、個人や小規模のグループによって作られる雑誌のような出版物を指す言葉で、日本で言ういわゆる「同人誌」「ファン雑誌」「ミニコミ誌」のようなものです。

甲南大学社会学科の授業「フィールドワーク研究」では個々人のフィールドワークの結果を、期末レポートではなく、手作りZINEを作って互いに見せ合う「ZINE大会」を行うなど面白い取り組みがなされています。
甲南読書会の主宰者がこの授業のTA(ティーチング・アシスタント)を務めていたので、「ZINE」という媒体・名前にこだわりを持ち、『回遊』もあえて「ZINE」という言葉を用いることにしました。

「「参加型メディア」Zineを取り入れたフィールドワークの授業:他者に伝え学び合う」『甲南大學紀要. 文学編』(169)p. 63-77, 2019, 西川麦子

『回遊』は甲南大学生協で販売予定です。
もし、「うちの店でも置いていいよ!」といった心の広い方がいらっしゃいましたらぜひご連絡ください。

『回遊』創刊号目次

・甲南読書会について/これまでの活動
・甲南読書会開催記録vol.10『金閣寺』三島由紀夫
・座談会-『金閣寺』読書会を終えて
・今、甲南読書会で流行っている本
・≪『射精責任』コーナー≫について(生協職員Y)
コラム
・読書会とテーブル(甲南読書会主宰・甲南大学大学院人文)←本記事で公開!
・私が甲南読書会に参加することになった経緯について(はまかぜリベラルアーツ研究所所長 谷口創)
・稚内紀行(甲南大学文学部2回生)
・先駆的非決意性、永遠の相の下に-ウィトゲンシュタインの「本来性」について(甲南大学文学部4回生)
・「手」を「見る」ということ(甲南大学大学院人文)
小説
・雪上の誓い/ろうそく/回遊(柳川弘樹)
・鶴の鳴き声(かしわぎともひろ)


読書会とテーブル


甲南読書会は基本的に、甲南大学のiCommonsという食堂や部室、ジムやちょっとしたホールなどが入った総合施設のスペースを借りて実施している。ブックカフェですることもあれば、プロジェクトルームとして借りられる部屋ですることもあり、茶室を借りて畳の上で行ったこともある。
読書会をするうえで、必要なものは特にない。人が集まり本の話をすること、それが読書会であるから、特別な機材は何ら必要でない。しかし私は読書会を開催するにあたって、場の要素として重要視することが一つある。それがテーブルである。

20世紀の政治思想家、ハンナ・アーレントは世界をテーブルに例える。「この世界でともに生きることは、ちょうどテーブルがそのまわりに座を占める人々の間にあるように、事物の世界が彼らの間にあることを意味している。人々の間に介在するあらゆるものと同様に、世界は人々を結びつけると同時に隔てているのである」(『人間の条件』)
ここでいう「世界」とは、家族の領域(私的領域)と区別された公的領域のことである。公的領域において人は自立した理性的な存在であり、言論と活動が保証されている。そして公的領域とは、他者によって、見られ、聞かれる「現れの空間」でもある。「現れの空間」での言論と活動を通して人間は、他者と共約不可能な自らの独自性を発見する。「言論は、差異性の事実に対応し、平等者の間にあって差異ある唯一の存在として生きる、複数性という人間の条件の現実化である」とアーレントは言う。
人々が本を読んで集まり、意見や感想を話し、議論する――活動する――甲南読書会という場はまさしく、公的領域、「現れの空間」であると言える。

甲南読書会には多様な人が参加する。文学部の人もいればそうでない人もいて、学生もいれば学生でない人もいる。読書が好きな人もいれば、あまり得意でないという人もいる。常連のような人もいれば初めて参加する人もいる。それでいて、読書会という試みは時に、個人の内部をさらけ出すような瞬間を持つ。そもそも読書という行為は個人で行うものであって他者と共有する必要性はない。その個人的な行為を他者に公開し、公開される場が読書会であるから、読書会というのはちょっぴりリスキーな側面も持っている。
そこに、介在者としてのテーブルがその役割を果たすのである。テーブルという存在は、人々の間をつなぎ、同時にある程度の距離を保たせる。人と人が会話するのに適切な近さと適切な遠さを保つ。

アーレントは大衆社会を批判して次のようにも言っている。「テーブルのまわりに集められた人々の前で、突然、ある種の奇術によってテーブルが消えてしまう。向かい合って座っていた人々は、もはや何か実体的な事物によって隔てられてはいないが、同時に、そうした事物を通じて結びつけられず、無関係なままなのである」。テーブルという共通世界がなければ、私たちは見知らぬ他者のまま、交わることはない。

大学というのは多様な人が存在する場所だと思う。高校を出てすぐの若者ばかりが集う場所ではなく、地域に開かれた学問の場で、種々のバックグラウンドを持つ、知らない人がたくさんいる場所。甲南読書会が大学で実施されていることは、その多様性を保つ大きな要因になっている。
自分とは異なる誰かとテーブルを挟んで、会話する。この複数で平等な諸個人による自己暴露こそが「活動」であり、このような活動が行われる場所が「公的領域」である。私たちは読書会というテーブルを挟んだ共通世界を通して、人間の複数性を知り、逆説的に自らの唯一性と向き合うのである。

巽カレン(甲南読書会主宰)
『回遊』創刊号より


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?