〈犯人当て〉Xの悲劇、或いはXmasの悲劇


長崎県杜郷村で行われる《夜煌祭》へ訪れた明神陽菜子と影山こほりは、宿が取れずに途方に暮れていた。たまたま出会った宇賀神希の厚意でふたりは宇賀神邸へと招かれる。そこで待ち受けていたのは、小説家・宇賀神重國の死と、血で書かれた《X》のダイイングメッセージだった。しかし、容疑者の三人は名前のどこかに《X》を有していて——

問題篇

 重國さんの遺体に近づき、改めてその死を悟る。勝手に触れるわけにはいかない。彼は、殺されたのだ。背中に滲んだ血、部屋に落ちた拳銃。殺人。
 だが、私の目を引いたのはまったく別のものだった。重國さんが身体をもたれた机の上に、赤い線が見える。遺体に触れずとも、その全容は確認できた。
 X。アルファベットと断言することが軽率なら、クロスする二本の線と言ってもいい。
 死に際の伝言だろうか? しかし、意味するところは分からなかった……。

 諫早駅に着いたのは一時十二分だった。東京から長崎――日本の半分以上を横断したのに、私は腰に少し疲労を感じるだけだった。普段の勤務の方が、身体にのしかかる負債が大きいように思える。
 横を見ると、私の同僚は呑気に欠伸をしていた。飛行機で散々寝ていた癖に、眠気は身体から抜け切らないらしい。口元は緩み、目は今にも閉じそうだ。だが、その間抜け面にすら愛嬌があるのが、何とも憎らしい。
「んー、酔った。きっつ」
「看護師が参ってどうするの」
 私はポーチから酔い止めを取り出し、押しつけた。ここからさらにバスの移動があるのだ。吐かれてしまっては堪らない。
「こほり、ありがとお」
 舌ったらずに礼を言って、陽菜子は薬を口に含んだ。
 明神陽菜子。洞門医院に勤める私の同僚である。同い年で出身は共に埼玉。学校こそ違えど、バレー部の試合で何度も顔を合わせた間柄だ。名前からして明るい彼女は、可愛らしい顔立ちと健気な振る舞いで、人気者の座を恣にしていた。明るめの茶髪がよく似合っている。
 一方で私、影山こほりはどうだろう。影に氷ときて、切長の目を持って生まれてしまった。おまけに身長は一六七センチ。患者から威圧感がある、とクレームを入れられたことだって少なくない
 こんな正反対な私たちが、なぜかクリスマスに、長崎の地で隣り合ってバスに揺られている。馬が合うとは言え、まさか二人で旅をする仲になるとは思ってもいなかった。
 陽菜子は酔うまいと、頑なに外へと視線を投げていた。
 私が彼氏と別れたのが十二月の頭。そこから一週間で陽菜子が傷心旅行のプランを立ててくれた。クリスマスは飲み潰れるつもりだったけれど、陽菜子のおかげで私の肝臓は安寧を得たのだ。
「どんなとこだろうね。杜郷ずごう村」
 車窓には木々が流れるだけで代わり映えしない。すると、車体が大きく右折し、途端に海を一望できる角度となる。
「こんなとこみたい。思ったより、良いとこかも」
 杜郷というバス停で停車する。海風のせいか空港よりも寒く感じた。雲が出始めていて、景色はあまり爽やかではない。




 バス停は高台にあり、そこからまっすぐ進むと、西洋風の屋敷がそびえていた。脇からは小道が延びていて、その先で民家の群れにぶつかる。民家といっても、和風建築ではない。木が使われているのは屋根くらいで、壁は煉瓦で構成されている。
 杜郷村はかつて隠れ切支丹の里だった。多くのカトリックをかくまったが、その中にブルーノという建築家がいた。彼はイタリアの家造りを伝え、文明開化の折にそれが出現することとなった。オランダ商館は閉鎖されていたが、長崎港が開港されていたことも西洋風古民家の増殖を手助けした。
「一日あれば回れるくらいのとこね。先にチェックイン済ませとこうか」
 今回の旅行は、陽菜子に一任していた。彼女の方からそう志願してきたのだ。だから、予約も陽菜子がしてくれた。そして間もなく、私は任せきったことを後悔するのはめになる。
「まったく……なんか嫌な予感はしてたんだけどね……」
 何の手違いか、予約は取れていなかった。おまけに部屋は満室ときた。杜郷村は観光地だけれど、村がそもそも小さいので、宿は一軒しかない。
「さて、野宿の道具を買いに行きましょうか」
「早まらないで! こんな真冬に!」
 私の冗談に慌てる辺り、相当参っているらしい。意地悪はほどほどに、弥縫策を考えることにする。
「まあ、空港の近くまで戻ればホテルくらいあるけど……お祭りは諦めるしかないね」
 陽菜子の顔が青ざめる。誰のせいだと思ってるんだ、と言いたくなったが、私も惜しい気持ちだった。
 夜煌祭は杜郷村の名物だ。その伝来はやはりキリスト教徒からだと言い伝えられている。それぞれの家が夜の間、ランプを灯し続けるのだ。衛生写真で祭の様子を見ると、杜郷村だけ真っ白になっている。それくらい、光は強い。
「最終バスは五時半だって……」
 点灯は六時から十時までのはずだから、一瞬たりとも祭は拝めないことになる。これでは何をしに長崎まで赴いたか分からない。そのとき、
「あの、何かお困りですか?」
 道の真ん中で思案する私たちが余程深刻そうだったのか、声をかけられた。民家の方から歩いてきたが、進む先にはさっきの大きな屋敷しかない。とすれば、あの家の住人なのだろうか。
 穏やかそうな、若い女性だ。黒縁の中の目は柔和で、ウェーブのかかった髪もその印象を支えている。両手に買い物袋を提げていて、片方からは、長ネギが飛び出していた。地元の人間なら何か策があるかもしれない――そんな期待を胸に、私は事情を話した。
「ああ、そうなんですか。でしたらお力になれるかもしれません」
 と、色よい返事。陽菜子の顔もぱっと明るくなった。分かりやすいやつめ。
 だが、女性の提案は何とも意外なものだった。
「よければ私の家にお泊まりになっては?」

 女性は宇賀神希と名乗った。出身はこの村だが、今は愛知に暮らしているらしい。祭の夜には帰省するのが宇賀神家の慣習のようだ。普段はあの広い邸宅に父親が一人で住んでいるが、今日は、彼女を入れて三人の子どもが帰ってきているという。
 買い物帰りだったようなので、帰路に付き添いながら話を聞いた。お礼としては余りに些細だが、荷物を私と陽菜子で持つ。
「クリスマスに帰る代わりに、正月は帰らないんです。おかしいでしょう」
「確かに――でも、この村はクリスマスの方がお祝いのムードがある気がします」
「そうですねえ。ただ、うちは明かりをつけないんですよ。民家から少し外れているから」
 私と陽菜子が同時に驚きの声を漏らすと、希さんはふふ、と笑って、
「父は中々偏屈で――あ、これ内緒ですからね。周りとあまり馴染もうとしないんです。祭自体は好きみたいですけど。母に先立たれて自分も歳なのに、ヘルパーさんも雇おうとしなくて、ずっとひとりで小説を書いてるんですよ」
「小説?」
 宇賀神という名前に小説。思い当たる作家がいた。
「もしかして、宇賀神重國先生ですか」
 陽菜子は首をかしげていた。私が彼女にこの名前を出したことはない。
「ええ、そうです」
 希さんは誇ることも謙遜することもせず、ただ微笑んでみせた。同じような反応に慣れているのだろう。私は内心興奮でいっぱいだった。心臓が暴れ回る一方で、表情だけは取り繕っていた。
 宇賀神重國の作品は、家に全部揃えてあった。情緒を持ちつつも重厚な論理で物語を作る、本格ミステリの書き手。サインをもらえたら――そこまで考えて、厚かましさを自覚する。
 希さんは父親の話をそれ以上せず、思い出したように足を止めた。
「あ、そういえば言い忘れてました。部屋はお二人でひとつとなってしまいますけど、大丈夫ですか? ダブルベッドなので広さは問題ないと思いますが……」
「もちろんです。泊めていただけるだけでありがたいんですから」
 陽菜子に目配せすると、彼女も頷く。
「ならよかったです。着きましたね、ようこそ宇賀神家へ」
 希さんはおどけて言った。西洋風の屋敷が門を開けている。私は歓迎されていることを祈りながら、そこをくぐった。
 玄関のすぐ前方、右側にダイニングがあった。豪勢なことに十人分の席が用意されている。壁際にはテレビが、部屋の隅には小さな冷蔵庫が設置されていた。窓は東側の壁に二つある。そして奥にはキッチンに続いているであろう通路が見えた。
「袋はテーブルの上に。荷物もあるのにありがとうございます。お部屋に案内しますね」
 ダイニングを出て右に、廊下がまっすぐ伸びていた。突き当たりをさらに右に曲がったところに階段がある。二階に上がるときにちらりと背後を見ると、木製の両開きの扉が目に入った。ここが重國さんの書斎だろうか。
 階段を上がり、廊下を奥まで進む。今夜泊めてもらう部屋に通され、ひとまず荷物を置いた。部屋は十分に広く、陽菜子の寝相の悪さを考慮しても、安らかな夜が過ごせそうだ。



「ほんとにどうなるかと思いました。ありがとうございます、希さん」
 陽菜子が朗らかな口調で言った。間が抜けていても陽菜子とて社会人だし、彼女の根明は私よりもよほど親しみやすい。
「いいんですよ。それじゃ、下に行きましょうか。家族を紹介します」
 いよいよミステリ界の重鎮とご対面だ。身構える私を陽菜子が面白そうに見ている。それにも腹が立たないくらい、私は高ぶっていた。
「あ、お父さん。ちょうどよかった」
 階段を降りたところで、顎髭を蓄えた老人と出くわす。書影で何度も見た顔だ。階段上の私たちに、ぎろりと瞳孔が向けられる。それに伴い、老人の額に皺が三本増えた。ただ、厳めしい反応に反して、声音は優しかった。
「おお、どがんした希。お客か」
「うん――実はね、手違いで宿の予約が取れんじゃったらしかと。祭んために東京からわざわざ来たらしゅうて、何だか気の毒で。うちに泊めてよかと?」
「そうか、構わん構わん」
 重國翁は私たちの方に身体を向けた。
「恵も翔もちょうど帰ってきとうけん、紹介しよか」
 寛大な人だ。冷淡な対応をされたらと内心怯えていたので、密かに安堵する。
 ダイニングに希さんと重國さんが入り、私と陽菜子がそれに続く。さっきは埋まっていなかった椅子に、二人の人間が座っていた。まず、ショートカットでやや気の強そうな女性。服装もタイトなニットにネックレスと、どこか硬派な雰囲気があった。その向かいの男性は逆に、左右に分けたロングヘアと鼻髭から、飄々とした印象を受ける。
「希、買い物出しっぱなしじゃない――その人たちは?」
 女性に問われ、希さんは同じ説明を繰り返した。拒絶する素振りはなかったが、歓迎しているふうでもなかった。
 男性はにやっと笑って私たち二人の顔を見た。合コンで品定めされるときだって、もう少し遠慮が見えたものだ。かといって、その不快感を表に出すことはせず、会釈に留める。
 ここで挨拶をしておくべきだろうと思い、一歩前に進み出た。
「ご家族の時間に水を差してしまい、申し訳ありません。希さんのご厚意で泊めていただくことになりました。影山こほりです。こちらは同僚の――」
「明神陽菜子です」
 さすがに陽菜子も、いつものあどけなさは控えめに、慎ましい挨拶をしてみせる。
「へえ、東京なんだ」
 と、気の強そうな女性。
「私、宇賀神恵。新宿のプロダクションで仕事してるから、もしかしたら近くかもね」
「私たちの病院、代々木なんです。お隣ですね」
 存外気さくな感じがあった。ほっとしていると、今度は男の方が、
「俺、かけるっていうの。バンドマン。池袋だからね、すぐ飛んでくよ」
「お前はまず真っ当な職につかんか」
 軽薄な翔さんに叱責が飛ぶ。しわがれているが、それだけに凄みのある声だ。顔こそ向けられていないものの、視線は射貫くように翔さんを捉えている。翔さんは反抗する気はないようで、
「分かってますとも」
 と、効いていないような受け答え。若い女というだけで厄介な態度を取ってくる患者もいる。突っぱねて激高されるのも面倒だけれど、受け流される方がよほどたちが悪い。翔さんはどうやら、後者のようだ。
 重國さんは張り詰めた空気を誤魔化すように、咳払いをしてみせた。時刻はもうじき、六時になる。
「祭ば見に来たということやったね。それなら良か場所がある」
 重國さんが言い、部屋を出た。案内してくれるようだ。私と陽菜子は遠慮がちにそれに続いた。階段の向かいの部屋――重國さんの書斎に通される。入って左手は、一面が本棚になっていた。文豪の全集、国内外問わず大量に並べられたミステリ、そして自身の著作。デビュー作の『奔放な殺人』を皮切りに、すべて揃っている。ラインナップは私のそれと同じはずなのに、どうしてこうも格が違うのだろう。
 だが、重國さんが見せたいのは当然それではない。彼は無言で、正面――大仰なガラス窓のある方を指さした。窓の手前に据えられた机は背が低く、外の景色を遮らない。
 薄暮の頃だ。夕焼けは民家の向こうに見える水平線に重なりかかっている。それを押し潰すように藍色が質量を増していた。この建物がやや高地にあるせいか、村とその先の橘湾がよく見える。
 そして、六時になった。すでに村は闇に没している。
 暗がりに潜む家々が、いっせいに明かりを灯した。夜に反抗するかのようだ。それまで部屋の全景を反射していた窓ガラスは、もはやそこに存在しないかのように、ただ光を通すだけのものとなる。
「すごい」
 陽菜子が声を漏らした。「特等席ですね」
「すごかろう」
 重國さんの声は弾んでいた。毎年これが見られるのなら、屋敷に居続けるのも納得だ。私が感嘆したそのとき、
「お父さん、三村先生がいらっしゃったばい」
 希さんの声だ。「入るね」と同時に扉が開く。
 彼女が連れていたのは、腰がほぼ垂直に曲がった老人だった。片手に杖、片手には診療鞄。
「そしたら、私たちもう少し村を回ってみます。ありがとうございました」
 いくら看護師でも、部外者が診療の場に居座ることもない。礼をして部屋を出ようとすると、
「楽しんできんね。あ、そうや。雨が降るかもしれん。玄関に傘があるけん持って行かんね。黒か傘ば」
 重ねて礼を言う。希さんにも会釈をし、部屋を出た。

 さっき見た村は光の塊であった。そして今は、光の中にいる。
 多くの民家は庭を開放し、そこで食べ物を売っていた。さすがに真冬だ、かき氷はない。
 どこに行ってもクリスマスツリーがあったが、家庭用にしては大きいものばかりだ。やはりこの村は、クリスマスに対する思い入れが他の地域のそれとは違うらしい。
 ホットコーヒーで身体を温めながら、私は呟いた。
「ヘルニアかしらね」
「あ、やっぱり?」
 重國さんから借りた傘を片手に、陽菜子も同意する。相手をまず「患者」として捉えてしまうのは、私の職業病だった。
「首を動かさないようにしてたから、もしかしたらとは思ったけど」
「書斎の机に、頸椎カラーがあったから」
「よく見てるね。私、村が綺麗すぎてそっちまで目がいかなかったな」
 と、陽菜子が恥じ入るように笑う。私がこのことに気がついたのは、なにも観察の賜物ではない。ただ宇賀神重國の執筆環境に興味があっただけなのだ。机の端には頸椎カラー。真ん中には、デスクトップパソコンがあった。椅子は重たそうなので、老齢の人に動かせるのかと心配になる。
「ねえこほりちゃん。あの人の小説、読んだことあるの?」
「ん?」
 ミステリの愛読者であることを隠しはしない。けれど、わざわざ言うつもりもなかった。かつてそれをクラスメートに言ったら、「そうなの? こわ」と返されたことがある。怜悧な印象を補強するならわざわざ話すこともないと、蓋をしてしまいたくなる。
 しかし、
「うん。全冊持ってる」
 陽菜子なら大丈夫だ。
「え、そうなの? ならサインもらわないと!」
「あのね、泊めてもらってるのにそんなことお願いできるわけないでしょ」
「そうかな? 重國さん優しい方だし、喜んで書いてくれそうだけど」
 家主の温厚な態度を見て揺らいでいる自分がいる。陽菜子の言ったことは、何度も頭に浮かんだ誘惑だった。
「ミステリーだよね? 一番のおすすめは?」
「やっぱデビュー作かな」
「一番手前にあったやつ?」
「そう、『奔放な殺人』。徹頭徹尾論理的で、持ち味の別解潰しも満遍なくやってる。それに幻想小説の味わいも……と、まあ、そんな感じ」
 危なかった。歯止めが効かなくなる。宇賀神重國作品は「意外な犯人」が醍醐味なのだが、それを言うのは興を削ぐだろう。「とにかくおすすめ。良かったら今度貸すし」
 私が言ったとき、頬に白いものが降りた。
「雪だ!」
 陽菜子が声を上げる。周りの観光客にまで聞かれたようで恥ずかしい。案の定、子どもを見るような目で微笑んでいる人が何人かいた。
「雨じゃなくて雪だったね。ほんと、重國さんに感謝しなきゃ」
 陽菜子が傘を開き、肩がぶつかるくらいの距離まで詰めてくる。男物の傘は大きくて、私たちを二人きちんと覆ってくれた。
「あれ」
 その傘に、穴が開いている。多角形の真ん中、骨子の真横辺りだ。指二本分くらいの、穴。陽菜子もそれに気づいたようだった。
「なんだろう、これ」
 穴は穴だ。きっと何かが刺さったか、引っかかったか。私はそう思った。
 それが後に怒る悲劇の片鱗だとも気づかずに。

 雪が強くなりそうだったので、少し早めに屋敷へ戻った。七時前だ。傘のことを重國さんに言うと、そうか、まあ古か物やけんな、と言って書斎に持って行った。
 ダイニングに入ると、ちょうど希さんと恵さんが夕食の準備をしているところだった。手伝えることはないかと聞くと、皿を並べるのを任される。
 村の様子に反して、この家でクリスマスを祝う習慣はないようだ。というのも、夕飯は和食だった。それが顔に出たのだろう、希さんが、
「お父さん、前糖尿病になってね。それでケーキが食べられないから、いっそ和食にしてしまえって」
 なるほど、理にかなっているような、いないような。やがて翔さんと重國さんが顔を出し、夕餉と相成った。聖夜なのに焼き魚に味噌汁とは何ともおかしい。けれど、これが健康のために形作られた文化なのは、私にとってただ嬉しかった。
 夕飯を終えて、八時頃に重國さんは書斎に戻っていった。締め切りが、という言葉と共に。
「まったく、クリスマスくらい仕事のこと忘れたら良いのに。私たちは休暇をとって来てるんだから」
 恵さんがぼやく。
「確かに、親父仕事になるとちょっと変だよなあ」
「そうなんですか?」
 陽菜子が尋ねると翔さんは嬉々として、
「一回パソコンの電源が落ちて、データが全部飛んだんだよ。それ以来一瞬でもパソコンから離れるときは保存するんだとさ。前なんか、落ちたもの拾うときにさえ保存してたぜ」
「あと、耳栓のせいでこっちから声もかけられないしね」
 恵さんが同調する。「肩を叩くしかないけど、そこに行くまでに印刷した原稿が散乱してるんだから。足の踏み場くらい作ってほしいんだけど」
「あれ? でもさっき部屋を見たときは片づいてましたよ?」
「昨日私と希で掃除したの。三村先生がいらっしゃるから……。あとで行けば、きっと酷い有様よ」
 床に散乱したものを集めるのは、老体にはきつい動作だ。紙となると滑って転ぶなんてことも考えられる。私の心配そうな顔を見てか、希さんが、
「離れて暮らすのも、そろそろ限界かもしれません。着いて早々、『首が動かんのだ』って言われたときはびっくりしちゃって」
「あれは多分、頸椎ヘルニアですよね」
「おっ、さすが看護師さん」
 翔さんの口調は、単なる賞賛以外のものが混じっていて、げんなりする。
「三村先生はなんて言ってたの?」
「とりあえず手術の必要はないみたい。ただ、あの治療器具――なんて名前だっけ?」
「頸椎カラー?」
「そう、頸椎カラー。あれをつけても症状が緩和してないから、近々また見に来るって」
 頸椎ヘルニアなら、手足の痺れが出ることもある。いずれは執筆も難しくなると思うと、一読者としての心配も頭をよぎった。
「私、そろそろお風呂いただこうかしら。ごめんなさいね、明日早くに出なきゃいけないから、お先に」
 恵さんがそう言って立ち上がる。腕時計を見ると、八時二〇分だった。
 その後、陽菜子、私、希さん、翔さんという順番でお風呂に入った。重國さんは、執筆が一段落するまではいつも引きこもるとのことだった。
 翔さんが戻ったのは十時半頃だった。大して時間はかかっていない。シャワーだけで済ませたのだろう。
「あの、このお薬どなたのですか?」
 十一時近くになって、そろそろ寝ようかという空気が漂い始めた。そんなとき、水を飲みに行った陽菜子が声を上げた。
 キッチンに、錠剤とコップが残されている。用意だけして、飲むのを忘れたらしい。
「お父さんのだ」
「アリセプト……認知症ですか?」
「はい……三村先生が処方してくださったんです。今も鼻がきかないとかで、それが兆候らしくて」
「嗅覚障害は早期発見の手がかりですからね。執筆を邪魔してしまいますが、届けに行きましょう」
 こういうとき、陽菜子の判断は速い。お盆にコップと薬を乗せ、ダイニングを通って廊下に出る。私と希さんがそれに続いた。
 希さんが扉をノックする。返事はない。耳栓をつけていて聞こえないのだろうか。希さんが扉を開けた。
 まず目に入ったのは、部屋中に散乱した紙だった。くしゃくしゃのもの、折り畳まれたものが床を埋め尽くしている。そして、その先に重國さんの身体があった。机に突っ伏すようにして上体を倒している。背中の左側には赤いシミができていて、そこから伝った血液が断続的に床を打っていた。
 希さんが、悲鳴も上げず、すんと崩れ落ちた。床に身体を打つ前に何とか受け止める。
「陽菜子!」
 私が声を出すより先に、陽菜子は進んでいた。足下の原稿用紙をかき分けながら、重國さんの方へ向かっている。
 陽菜子が脈を取り、顔を歪めた。
 凶器はあれだ――部屋の真ん中からやや右側。原稿用紙の隙間に、黒い拳銃が落ちていた。
 すでに村の灯は消えている。窓は、闇に浮かぶ私たちを映していた。

 警察が到着すると、私たちは現場から追い出された。そして恵さんらと共にダイニングに集められ、順番に事情聴取が行われることとなる。藤塚と名乗った刑事は髪を雑に左に流し、顎髭も好き勝手にしている人だった。
「どこか空いとる部屋はありますか」
 藤塚刑事が聞くと、恵さんが、
「一階の、和室があります。その、父の部屋の隣ですが……」
 まず陽菜子が呼ばれ、私の聴取はその後だった。
 被害者との面識やここへ来た経緯を聞かれる。陽菜子も同じことを言ったはずだが、矛盾がないかを見られているのか、省略は許されなかった。
「被害者は銃で撃たれとった。あんた、あの銃見たことがありますか」
「部屋に落ちていた黒いのですか?」
「ああ」
「いえ……見たことありません」
「銃声なんかは」
「聞こえませんでした」
「やろうな。サイレンサーがついとったけん。あんたが風呂に行ったのは、何時や」
「九時を過ぎていたと思います。陽菜子が九時ちょうどに戻ったので、そのあとです」
「そのときの重國さんの部屋の様子は」
「お風呂とは真逆なので分かりません」
「各自が風呂に行った時間、なるたけ細こう教えてください」
 私は記憶を辿った。八時二〇分に恵さんが立ち上がったことは覚えている。そこから三〇分ほどで戻ってきて、陽菜子がいなかったのは一〇分程度――つまり五〇分から九時のはずだ。いつもシャワーで済ますと言うから、今日もそうしたのだろうと思ったのを覚えている。不規則な勤務をしていると、生活にかける時間はどんどん短くなるのだ。
 私と希さんも二〇分程度だった記憶がある。私が戻ると翔さんはテレビで音楽番組を見ていて、四〇分くらいに希さんが戻ってきても、そこから動かなかった。そして十時を回り、翔さんが立ったのは結局十時二〇分頃だった。戻ってきたのは十時半。そして、それ以外で誰かの姿が見えなくなることはなかった。
 大雑把な時間分けだが、そう説明した。藤塚刑事は満足も不満足も示さず、ただ頷く。
「あんたは死体に近づいたか」
 死体、という言い方に嫌悪感を覚えつつ、はい、と答える。
「私も陽菜子も看護師で、遺体と縁遠い職ではありません。彼女が重國さんの絶命を確認しましたが、私も念のため同じようにしました」
「何か気づいたことは」
「死亡からそこまで時間が経ってないだろうとは思います。犯行時刻は絞り込めないんですか」
 藤塚刑事は顎の肉を、人差し指と中指で摘まんだ。犯行時刻周辺の各人の動きは、もう証言している。今更偽証できる余地はない――そんなことを思ったのだろうか、
「この家にいた人間なら誰でも犯行は可能や。もちろん、外を否定することもできんが。で、他には何か」
 不満足な顔で水を向けられ、やはりあのことか、と思った。
「……血で、文字が書かれていました」
 薄灰の机には、デスクトップパソコンが置かれていた。キーボードの右横、重國さんの右手の傍。拙い習字のような弱々しさだったが、書かれた形はきちんと判別できた。
「アルファベットの、Xに見えました。ただ×印や、他の記号かも」
「……そうか」
「あれは、重國さんが書いたものなんですか?」
「あんたはどう思う」
「部屋には原稿用紙が散乱していて、誰かが踏んだようには思えませんでした。もちろん陽菜子や私みたいに、踏まずに近づくことはできます。けど、あの曖昧なメッセージを偽装する意味は、ない気がします。だから、重國さんが書いたと」
 藤塚刑事は座椅子にもたれ、ふう、と息を吐いた。
「指の跡からして、被害者が書いたもので間違いない。あんた、被害者の作品を読んだことあるか?」
「ええ、まあ」
「どのくらい」
「全冊、ですが」
 藤塚刑事は目を丸くした。「あんたのおかげでうちの捜査員の視力は守られたわ」
「もしかして、重國さんの作品から手がかりを得ようとしてますか?」
「何か出るとは思わんけどな。で、ダイイングメッセージが扱われた話はあるか」
「覚えてる限りでは――」
 私は筋立てを反芻しながら、作品名を挙げた。短編は取りこぼしているかもしれません、と最後に付け加える。
 ダイイングメッセージとは、いかにも小説めいた事件だ。そのせいか、大好きな作家を失った実感が、いまいち湧いてこない。
「そうだ、傘は」
「ああ、あんたも見たんやったか」
 私の証言のほとんどは、陽菜子の後追いに過ぎない。けれど私は、善良な市民の義務としてそれを告げる。
「重國さんから借りた傘に、穴が開いてました。あれって硝煙を避けるためのものじゃないんですか」
「恐らくな。ただ調べても、何も出んかった。被害者が机ん傍に置いとったんや。さすがにそれば取って銃にはめて、なんてことはできんかったんやろ。全員ん衣服ば調べる。これで犯人が分かれば、あんたらが功労者やけどな」
 藤塚刑事は期待を込めずに言った。全員がシャワーを浴び、服も洗濯してしまったという事実を、私は思い出した。

 私が戻ると希さんはすでに回復していて、事情聴取に呼ばれていった。ダイニングは二名の警官により圧迫され、重苦しい空気に包まれている。それから翔さん、恵さんが順に呼ばれた。
 その間は喋る気にもなれず、私はあの血文字を頭の中でこねくり回した。例えばあれは、希という漢字の一画目かもしれない。それに、メグミと漢字で書けば一文字目にもなるだろう。翔さんは当てはまらなさそうだ、と思っていたら、演算記号の×に思い至って慄然とした。どれも捻りすぎていないがゆえ、今際の際に出てきてもおかしくない発想だ。
 要は、あのダイイングメッセージから読み取れることなどないのだ。
 やがて希さんが戻り、恵さんが呼ばれる。それを見計らったかのように、翔さんが口を開いた。
「……やっぱり、昨日の話のせいで、」
 すると希さんが目をつり上げて、
「めったなこと言わんで、翔」
「でも姉貴」
 翔さんは続けた。先ほどの軽薄な様子とは打って変わって、思い詰めたような顔をしていた。
「俺たちの遺産があがん減ったんや。それしか考えられん」
 希さんはため息をつき、それから恥じるように私たちを見て、
「父が昨日、遺言状を書き換えると言ったんです。うちには腹違いの兄がいて、父と折り合いが付かなくて何年も顔を見せていません……今日も。だから彼には遺産をやらない、父はそう言っていました。ただ、」
「昨日急に、俺たちと同じだけやる、遺産は四等分だって」
 つまり翔さんらの取り分は減るということだ。この口ぶりや小説家としての実績を考えるに、けして少ない額ではないのだろう。けれど、それを口にするのは三人の中に犯人がいると疑うのと同義だ。あるいは翔さんが犯人で、均等に疑いの目を向けさせたのかもしれない。遺産の話はどの道、聴取で明らかになるだろう。
 私も、この家の誰かが犯人だと思っていた。だが、こうして言葉にされると、やはりやりきれない。
「凶器の拳銃って、きっと親父のもんやろ。俺らに口噤ませて、変なもん集めてるから、だから――」
「翔!」
 いつの間にか扉の前に立っていた恵さんが、目をかっと見開いて、濁りのある怒声を発した。
「あんた、何言いようと」
 だが翔さんは、恵さんには目もくれず、彼女の後ろの藤塚刑事に問うた。
「刑事さん、親父は色々非合法なもん集めとりました。知ってて黙っとった俺らも罪に問われるんか?」
「そらあ、状況次第やな」
 藤塚刑事は曖昧に答え、
「皆さんに聞きたいんですが、書斎の奥に、翔さんの言うような非合法なもの――銃のコレクションばしまう棚がありました。凶器はすべてそこから持ち出されている。あれは、自由に持ち出せるものでしたか」
 希さんが頷き、翔さんはふてくされて言った。
「うちのもんなら、いくらでもチャンスばあるな。鍵も、どこにあるか知っとったし」
「拳銃の発射位置からして窓から入ったとは考えにくい。部屋には隠れるような場所も、指紋が拭き取られた跡もない。これから何回も、聴取させてもらいます」
 内部犯であることを、ほぼ確信している台詞だった。藤塚刑事が言い終えたとき、突然、陽菜子が立ち上がる。
「書きかけの原稿のデータが最後に保存された時間から、犯行時刻が狭まりませんか?」
「無理や」
 咄嗟にそう答えて彼は、情報を与えたことを後悔したのか、無愛想な顔をさらに険しくした。
「つまり、重國さんが自室へ戻った八時から、八時二〇分の間、そう考えて差し支えないですか」
 藤塚刑事は曖昧に頷き、結局、
「八時十五分や」
 重國さんは少なくとも、原稿が保存された時間には生きていたはずだ。例えば八時半以降にそれが行われていれば、恵さんは容疑者から外れる。だが、八時十五分となれば、誰を消去することもできない。
「そしてあの血文字は間違いなく、重國さんが書いたものである。これはさっき仰いましたよね」
 陽菜子も同じ話をされたらしい。他の三人も怪訝そうな顔をしないから、血文字については知っているのだろう。あの記号に心当たりがないか聞かれたのかもしれない。
 藤塚刑事がまたも頷くと、陽菜子は静かに言った。
「それならば、犯人が分かりました」


読者への挑戦

 現時点で――藤塚刑事によって、ダイイングメッセージを残したのは確かに被害者らしいことと、原稿の保存時刻が明言された時点で、犯人を特定されるための手がかりは、すべて出揃った。
 明神陽菜子と影山こほりは看護師であり、ゆえに国家試験にも合格している。だが、ここで求められるのは彼女らの職業知識でも、当て推量でもなく、論理と常識である。
 つまり、

 宇賀神重國を殺害したのは誰か?
 明神陽菜子はどのようにそれを推理したか?

 手がかりはすべて影山こほりの視点により示され、読者もまたこれらの問いに答えることができる。地の文に虚偽の記述はなく、犯人以外は嘘をついていない。また、犯人は本文中に登場した人間である。

 そして、鍵はやはりダイイングメッセージである。





解決篇

 私は思わず陽菜子を見た。彼女の瞳は、その場の全員を見据えている。
「拝聴しましょうか」
 藤塚刑事が言った。素人だと侮っているのか、本当に聴く価値があると思っているのかは分からない。けれど、陽菜子はここで一歩も引けなくなった。
「まず、ダイイングメッセージについて検討します。皆さんも恐らく聞かされているでしょうが、重國さんの右手辺りには、血でアルファベットの大文字のXのような文字が書かれていました。
 前提として、あの血文字は重國さんが書いたものです。ご遺体に近づくには原稿用紙の上を歩かねばならず、犯人がそうまでして偽装する意味は思い当たりません。何より、警察の捜査により重國さんが書いたと保証されています。そして、今際の際に残したからには犯人を示すと思って良いでしょう。ミステリ作家である重國さんが、咄嗟にその発送に至ることは自然です」
 時折ゼスチャーを交えながら理路整然と話す陽菜子は、先ほどまでとは別人のようだった。だが、私は仕事中にあの姿を何度も見た。つまり、彼女は聡く、今の語りも決して見せかけではない。
 陽菜子は続けた。
「ただ、ダイイングメッセージの内容を特定するのは不可能です。あのXは――希という漢字の一画目、メグミさんのメ、翔さんを示す算用数字の×。いかようにも解釈できてしまう。もしかしたら私やこほりを指し示すことだって可能かもしれない。
 ……しかし、このダイイングメッセージから、犯人を特定できます」
 まるで禅問答だ。頭が追いつかない。陽菜子以外の全員が同じ気持ちだろう。犯人ですら、こんな経路で自分が追い詰められることは想定していないのではないか。
 ダイイングメッセージが書かれたことは何を示すか――それは、重國さんが犯人を知っていたという事実です。重國さんの小説は、別解潰しと意外な犯人を持ち味にしていました。そんな重國さんが犯人を示そうとしたからには、誰が犯人かを知っていた。そう考えられます」
「そりゃそうだろ。当てずっぽうで犯人にされちゃたまらない」
 翔さんが言った。私も内心で同意する。陽菜子の話は、至極当たり前のことだ。犯人を知らずにメッセージは遺せない。
「その当たり前が重要です。次にこう考えましょう。
 重國さんは、どうやって犯人を知ったのか?
 その時間に誰かと約束をしていたから、あの人が自分を殺しそうだから……不十分です。もしかしたら自分を撃ったのは、違う誰かかもしれない。だから、メッセージを遺したからには、重國さんは自分を撃つ犯人を自身で認識したはずなんです」
 やはりこれも、当たり前のことだ。陽菜子の推理は続く。
「では、現場の状況を見ていきます。重國さんが執筆作業をしていたことは、三つの証拠から明らかです。まず倒れていた位置。次にはめられていた耳栓。最後に、原稿の保存時刻。重國さんは一瞬でも画面から離れるときは保存をしたそうですから、最後に保存されていた八時十五分以降はずっと執筆をしていたことになります。そして犯人は扉の前から拳銃を発砲した。これも銃創の位置から確定して良いでしょう。執筆中の重國さんから見て、右斜め後ろから撃ったことになります。ではどのように、重國さんは犯人を見たのでしょう?」
「そんなの」
 恵さんが怪訝そうな声をあげる。
「振り返って見れば……いや、」
「そうです。頸椎ヘルニアを発症した重國さんは首を動かせませんでした。では視覚以外ではどうか。
 声で特定する。これも駄目です。重國さんはずっと耳栓をしてましたから。あるいは嗅覚――考えづらいですが、判別の手段としては不可能ではありません。しかし、重國さんはアルツハイマーを発症していて、嗅覚障害があるそうです。これも除外します。
 残された方法は、間接的に見ることです」
「どうやって? まさか防犯カメラとか?」
思いつくままに言うが、陽菜子は首を振った。
「それがあれば事件は一発で解決ね。重國さんは、鏡越しに犯人の姿を見たの」
 鏡――そう言われて、ハッととする。
「窓ガラス」
「そう、机の接する側の壁にある窓ガラスです。でも、祭の間はあのガラスに鏡としての機能はありません。というのも、民家の光が強すぎて、そこに存在しないかと思うほど透き通ったものになるからです。したがって、まだ明かりがついていた間は、重國さんが犯人の顔を見ることはできません。当然メッセージも遺せない。
 ダイイングメッセージの存在から、犯行はあれが鏡として機能する、明かりの消えた十時以降だったと分かります。その時間に殺害の機会があったのは」
 陽菜子の目がたったひとりを捉える。「あなたですね、翔さん」

 翌朝、私たちは宇賀神邸を後にした。翔さんは、陽菜子の告発を聞いて糸の切れた人形のようになってしまった。
 遺産の分配の話を聞いたとき、自分でも知らぬうちに拳銃を盗み出していたらしい。遺言状が書き換えられる前にという焦りが爆発した結果の犯行だった。衝動的だったがため、陽菜子の推理に反論することにすら思い至らなかったのではないかと思った。
 私たちがいたのは想定外だったが、明日には恵さんが帰ってしまう。容疑者が減る前に、という考えもあったのだろう。陽菜子が居合わせたことは彼にとっての不運で、希さんや恵さんにとっての幸運だった。
 メッセージの真意は、もう分からない。書いた人間はこの世にいないのだから。尊敬する作家を失い、これから著作が読めなくなることを今更になって実感した。翔さんを恨めしくも思う。だがどうしたって、命は還らない。看護師になってから苦しいくらい直面した事実だ。
「ねえ、陽菜子」
 バスの車中、遠ざかる杜郷村を見ながら言った。「あなたに探偵の才能があるとは思ってなかった」
「才能だなんて。ただ私は――もう少し自分を出しても良いと思っただけ」
 妙な物言いに、首を傾げる。
 そういえば、推理の中でひとつだけ引っかかることがあった。宇賀神重國が意外な犯人を持ち味とすることを、どうして彼女は知っていたのだろう?
「ねえ、こほり」
 陽菜子の顔がこちらを見ている。けれどそれは、愛嬌とか、朗らかさを脱ぎ捨てたような、聡明な眼。
「私も『奔放な殺人』が一番好きなの」

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