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辛い分だけ、尊い経験を積み上げたのだと思う。

私が鬱病を発症したきっかけは、失恋だった。
最初はそんなしょうもない理由で、と自分でも思っていたし、周囲にそう思われるのも怖かった。
でも失恋は、20代の自殺の動機の11%を占める、意外に重大なことなのだ。

ある程度思い出さなくなるのには、3年かかった。
今だって、思い出の曲を聴いたり、写真を見たりすれば、泣けてはくるけれど、毎日泣くようなことはなくなった。

彼と別れてから、3人と付き合った。
異性の記憶は異性でしか上書きできないというけれど、1人新しい恋人ができるくらいじゃ全然無理で(失礼な話だ)、3人付き合って新しい傷をたくさん作ってやっと、3年前の彼を思い出にできた。

それでいいのか、
という突っ込みはさておき。

まだまだ発展途上ではあるけれど、未熟なりに辛い失恋を乗り越えようともがく中で、2つ、手掛かりになった思想がある。
(いずれも、私の身勝手な解釈であることを先に申し添えておく。)

1つは、ニーチェの永劫回帰の考え方だ。

永劫回帰の世界では、喜びも悲しみも、今まで自分の生きてきた生をそっくりそのまま、繰り返す。苦しみだらけの人生を、ただひたすら繰り返す、最悪の世界である。
それでも、これまでの悲喜こもごもも、将来のまだ見ぬ不幸も、全てをひっくるめて、「何度この生を繰り返してもよい」と言い切れるとき、人は何も怖くなくなる。
それが、超人である。

そんなの無理だと思う。
苦しかった鬱の期間を、立ち直ろうとあがく日々を、何度でもなんてとても思えそうにない。

だが、幸福で満ちていたあの瞬間も、再び味わえるのだとしたら。
そして、その一瞬のために、全ての苦しみを受け入れてもいいと思える、そんな記憶が1つでもあるのだとしたら、この人生は何度でも繰り返すに値するのではないか。

彼と過ごす中で得た感動、心が揺さぶられた瞬間は、私の人生を強力に肯定してくれる。
暗い荷物なんかではなく、むしろ、輝かしい財産なのである。

ここでもう1つ、そんな思いを補強してくれたのが、「夜と霧」を書いたフランクルである。
想像を絶する極限状態を経験したフランクルは(ここで引き合いに出すのが申し訳ない)、どんな状況下でも人生に意味を与えられる、3つの価値があると説いた。そのうちの一つが、体験価値だ。

「この瞬間を体験するだけでも、生きてきたかいがあった」
そんなふうに思えるような体験が、人生に意味をもたらすのだと言う。
また、過去とは記憶をしまっておける金庫であるとも述べている。
生き抜かれた時間は、時間の座標軸に永遠に刻まれ続けるのだと。

失恋によって、最愛の人を失ったのだと思っていた。苦い喪失の経験であると、自分の中に位置づけていた。
フランクルの思想を知って、大切な記憶を、得たのだと気づいた。

たしかに辛くも苦しくもあったが、その痛みはそのまま、獲得した経験の尊さ、価値そのものであった。
苦しんだから、それだけ価値があるのだと、言い切れるのである。


思い出にできる訳なんかないと思っていたけれど、そろそろ前に進み時なのかもしれない。


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