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人生

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人生について徒然なることを徒然なるままに書いています。
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#コラム

失う寂しさ、出会えた喜び

出会うはずのなかった本。 そしてきっと出会うべくして出会った本。 『昨夜のカレー、明日のパン』は私にとって、そしてこれを偶然読んでいるあなたにとってそんな本かもしれない。 …とここまで書いてキーボードを打つ手を止めた時、かけっぱなしにしていたBGMがディズニー映画『リメンバー・ミー』の主題歌に切り替わった。出来過ぎている。どちらも逝ってしまった人を想いながら生きる人を描いた作品だから。 ♪リメンバー・ミー  忘れはしない  リメンバー・ミー  夢の中で  離れていてもい

大好きなあなたへ。

TVのない生活を10年以上している私にとって、音楽を聴いたり、新しい曲を知ったりする手段はもっぱらYouTubeかAmazon Musicだ。瑛人の『香水』もKing Gnuの『白日』もNiziUの『Make You Happy』も。 本家を知る前に、「歌ってみた」「カバー」で曲を知ることもよくある。もしかしたらそのケースの方が多いかもしれない。 一度ハマると延々と同じ曲を聴き続けるタイプの私は、最近、島津亜矢の『アイノカタチ』をよく聴いている。この曲は元々MISIAが歌

苦くて甘い「乾杯」を、一緒に。

あのお酒とあの思い出ハタチを迎えてから10年が経った。10年もあれば、大学や地元、会社や旅先でのいろんな「お酒」の思い出がそれなりに降り積もっている。 学生の懐にもやさしい値段の飲み放題のお店で、おそるおそる飲んだカシスオレンジ。だだっ広い河原でバーベキューをしながら、喉に流し込んだ缶チューハイ。寒い冬の恒例だった誰かの家での鍋パーティーに、必ずといっていいほどあった梅酒。たまに帰る実家で「せっかく季世が帰ってきたから」と、家族が用意してくれていた地元の日本酒やワイン。社会

時代を超えて「いいもの」が遺る理由−外山滋比古さんの訃報に寄せて

考えるのは面倒なことと思っている人が多いが、見方によってはこれほど、ぜいたくな楽しみはないのかもしれない。 −『思考の整理学』あとがきより。 1.本棚にあった著者の生きた証 『思考の整理学』(1983)を著した外山滋比古さんが96歳でお亡くなりになりました。 この本のタイトルを一度は聞いたことのある方も、または実際に手に取ってみた方も多いのではないでしょうか。 訃報を聞き、私はすぐに本棚にあった『思考の整理学』を手に取りました。著者の外山さんの不在を実感できないままに

梅色の春

先日、庭園に梅を見に行った。梅のあの少し角ばったような枝ぶりやごつごつとした木肌、そして丸みを帯びた花びらが私は殊の外すきだ。 桜以外の「花見」をするようになったのはいつからだろう。少なくとも学生時代はなかったような気がする。梅、藤、椿、紫陽花、バラ、ネモフィラ、水仙…。大体どれも大人になってからわざわざ足を運んで見に行くようになったものばかりだ(ネモフィラはまだないけれど)。 桜を見るときは、盛りを見逃さないように、なんだか気持ちが急いてしまったりするものだけれど、散っ

ゆめはいまもめぐりて。

年末年始、地元に帰った。高校卒業までを過ごした街。 新幹線で北へ向かうその車窓からは、トンネルをくぐるたび、視界に白の面積が増えていくのが分かる。雪が、枯れ木に花を咲かせているのだった。 駅のホームに降り立つと、お馴染みの凛と冷えた空気が身体を包むのがわかった。春夏秋冬をどれも等しくこの街で過ごしたはずなのに、この街を思い出すとき真っ先に浮かぶのは冬の記憶だ。 最高気温すら氷点下を記録することも珍しくないこの街で、寒さに奥歯を震わせながら足早に歩いた通学路。夜寝る前、凍

秋、深まる。

季節がどんどん秋めいてきた。 冷たい空気が頬に触れ、喉から肺へ、そして血管の隅々まで体の中に染み渡っていく感覚が好きだ。 ああ、自分は呼吸しているんだな。 そんな当たり前のことに改めて気づく。 指先が冷え切って初めて、血の巡りに意識を向けるように。 普段、自分がほとんど意識していないことを、寒い季節は思い出させてくれる。

親愛なる清少納言さま

秋は夕暮れ。 わたしもそう思います。 秋の夕暮れはなんだってこんなに美しいのか。 夏の夕暮れの、暑さから徐々に解放される期待感とはまた別の、少し冴え冴えとした空気の中で、時とともに色とりどりに変化していく空の色に見とれるあの気持ち。 秋は夕暮れ。 千年の時を超えてなお、その言葉が受け継がれていることを知ったら、あなたはどんな反応をするでしょうか。それを知ったあなたの文章も読めたらいいのに。そんなことを思います。

あんなに嫌いだったのに

地方から東京へ就活遠征をしていた頃、私は東京が大嫌いだった。どこに行っても人・人・人…。なのに、心許せる人はほぼ皆無。 説明会や面接に疲れて、公園のベンチに逃げ込むも、東京は公園すら不自然なくらいに整っていて全然気が休まらなかった。地元の荒削りな山々と悠々と流れる澄んだ川、緑が生い茂る河川敷。それとは真反対だった。 東京のど真ん中は、山なんてビルに隠れて見えないし、川は底も見えないくらい深い色をしているし、河川敷なんてものはない。街路樹だって公園の植物だって綺麗に手入れさ

一人じゃできない一人旅。

わたしはよく一人旅をする。でも最近思う。 「一人旅って一人じゃできないんだよな」 もちろん、旅先で誰ともそれほど関わらず帰ってくることもある。でも、わたしをその場所へ運んだのは、ガイドブックごしに知る「誰か」の情報だったり、身近な人のお土産話だったりする。 そしてやはり、一人旅は旅先で誰かと関わることが圧倒的に多いと思う。道に迷っても、一緒にいる誰かが代わりにガイドしてくれるわけでもない。自分で、地図や周りの人に助けられながらなんとかなる、そんな経験をどれだけしてきたこ

ヨク食ベ、ヨク眠レ。

週末は少し無理がたたったのか、胃は荒れ放題でろくに食事も取れず、胃痛でよくよく眠ることもできなかった。 「食べれる」、「眠れる」ということがどれだけ偉大なことなのかを思い知った数日間。コンディションが悪かったせいか、気分もちょっとささくれていた。 どんなにしんどいときでも、悲しいときでも、しっかり食べてしっかり眠ることができれば、とりあえず大丈夫だし、それさえできれば大抵のことはなんとかなる。本当に。 よく遊び、よく学ぶ以前に、よく食べて、よく眠らなくては。

「偏見」についての偏見

この人は絶対偏見あるだろうな。 あの人は偏見ないよな。 どちらも、「こういう偏見があるはず」「そんな偏見はないなず」という偏見。誰が何をどう見ているかなんて、わかることの方が少ないのに。 偏見は怖い。一部分を切り取って悪く見られたら?嫌われたら?そう考えるとすごく怖い。でも自分だって偏見はある。 かのアインシュタインもこう言ったらしい。 常識とは18歳までに身につけた偏見のコレクションのことをいう。 常識。当たり前。それが一体なんなのか。「未知」と出会ったとき、ど

輪郭

ここ数日、環境の変化が目まぐるしい。知らない人に会ったり、馴染みのない話題に遭遇したり。 その度に、自分が何を知っていて、何を知らないかということをくっきりと思い知る。何ならすらすら言えて、何なら表現に戸惑うのか。それが表面的なものであれ、自分の深層に迫るものであれ。 自分というものの輪郭が明確になっていく感覚。結局、「自分」というものは「外」との関わりの中でやっと識別できるものなのだろうと思う。それが人であれ、場所であれ。 その輪郭は、自分でも思いもがけない形をしてい

ヘアアイロンの変

ヘアアイロン。今までわたしの人生とは無縁だったもの。 わたしは直毛で、毛量もものすごく多い。長めに伸ばしていた10代の頃、結婚式やイベントごとで髪をセットしてもらうときは、決まって美容師さん泣かせだった。 「ピンが押し戻される…!」 「髪がまっすぐすぎて、すべって結えない…!」 そんなわたしは、成人式の翌日から今日この日まで、ずっと短い髪をしている。ツーブロックにしたこともある。元来ずぼらなので、朝はぎりぎりまで寝ていたいし、ヘアセットに時間がかかるのは耐え難い。