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無駄ばかりを削げないでいる【雑記】

無駄を削げない。捨てられない。
僕の性格はまさに「捨てられない人間」で、なんに対してもそうだ。

例を挙げるなら掃除が下手、雑学を知りひけらかしすぎる、会話の内容もとっ散らかる、みたいな。
無駄なのは愛おしいことだと思っている。
「それ今関係ないじゃん、いつになっても使わないじゃん」というものこそ、どんな時も付随していてほしい。
「無駄だな~笑」と思いたい。娯楽ってもともと全部無駄だと思うし。

文章に関しては特にこれが顕著だ。

深く考えてないけど、本当なら改善できたほうがいいな~くらいの軽い悩みになっている。
本筋に全く関係ない余談を段落としてわざわざ追加していて、読み返した時せっかく文のテンポはいいのに構成がすこぶる読みにくい時がある。
自覚はしている。改善はそのうちそのうちかな。

というのも日記や雑記を書き始めてかなり早い段階で、感銘を受けた考え方があった。
無駄が好きなのは、その考え方が根底にあるからだ。

オモコロの原宿さんのインタビュー。オモコロ5周年だったかの記念講演まとめみたいな記事で、たしか今はそのページがない。
「まずは関係ないこと、無駄なことも余談として記事に入れてほしい」「毎日続けてみることだけはする」「いつかの傑作のための駄作がある」みたいなことをインタビューで答えていて、それを真に受けた。

確かほかにも「しょうもない疑問が思いつくのに、書くネタがないなんてことはない」とか「いつか『うんちのおしっこ煮詰めをしたら、蒸気は屁なのか』をしたいけど、倫理的に実践できてないんですよね」とかみたいなことも書いてあった記事だったと思う。
もうその発想自体が真面目なインタビューの受け答えとは思えないほど関係なく無駄に感じて、でも僕はそれが面白かった。
こういう人が言うとえらく説得力があるな、と感じた。

その後に他のメディアで出てくる原宿さんのインタビューも基本の考え方は同じで、「つまらないものや無駄なものを提供できる場、提供されたい人が寄れる場があったほうがいい」みたいなことを言っている。
オモコロ編集長らしさで言えば満点。この人なら背中を預けられる、安心してこの下で働けると思いながら記事を書いているライターさんは実際多そうだ。
原宿さんのワードセンスはかなり独特だけど、編集者としての考え方とエンタメの感性は模範的かつズバ抜けている。
今では尊敬する人の一人になった。

建前上、僕はそもそも商業を目指してないけども。そこまで崇高なことはしてない。
ただ文は上手くなりたい。趣味としてでも。

ただ無駄を愛することそれ自体の尊さ素晴らしさと、文章の読みやすさはまた別軸だ。
仮にお金が発生したり誰かから頼まれたりデカくなりたいと思ったりした時には、刺さる人にだけ刺さるというのは足かせになる。

そもそも個人の考えを文字だけでつらつら並べるnoteみたいなコンテンツサイトは大衆にウケるようにはできてないけど。お金も回りにくそうだ。noteやhatenaが会社として経済的に成功している成功するプラットフォームかと言われれば、そうでもないと思う。それは一度おいておく。

狭いnoteやエッセイや日記や文章の界隈でも、誰が読んでも面白いものって結局のところ無駄が少ない。
ほんとうに傑作を書くなら、出す情報の断捨離は確実にできるようになった方がいい。

エンジョイの文章とガチの文章をわけて考えてもいいかもしれない。
あんま文章をセルアウトで考えたことないな。売れるべ!wという気持ちの物書きって見た感じ少ない。

面白いと思える文章を書きたいから、捨てる技術は習得しておきたい。ひとつの技能として。でもせっかく書いた無駄な一文を捨てるの、もったいなくってねえ。

作曲家が技術論で「引き算の音楽、足し算の音楽」みたいなことをのたまうように、どっちもできる方が上手く作れる。

「いやでも僕はもう最近ずっと足し算ばっかり楽しくて、足し算の曲ばっかり作ってます」とラジオで言っていた星野源が脳裏に浮かんだ。想像上の星野源の顔って、ホクロがどっかにあったよな……どうでもいいな……ってなるね。これも無駄な一文かどうかでいえば間違いなく無駄な一文だ。

ともかく文が上手くなりたいという思いがあるからこそ、無駄が多くなってしまうことには苦悩もある。
そこまで深く考えずに軽く気に留めるくらいでいい気もする。未来の僕のために毎日続けるのが最重要だ。
まだ22歳だからか少し年齢が上の人よりそういう未来のためのモチベーションで動けていて、はたから見るとギラギラしているかもしれないと思うこともある。これもまた関係ない一文か。


一回書こうとして折れたテーマに、「芸術加点のあるスポーツと文章作品は似ている」っていうのがある。
根拠が弱くて長くは書けなかったが、ちょい出しの比喩としては上等かもしれない。

オリンピック競技でいう、フィギュアスケートやシンクロナイズドスイミングや体操。
より素晴らしいものとされるためには、基本のミスがほぼ許されない。

柔道やカーリングといった対戦競技なら「最終的に勝てば勝ち」なのだが、こういうのはリプレイで見た時にもミスが限りなく少ない必要がある。
スコアアタックのスポーツは、いつ見ても評価基準のうえに立つ一定の強さがある。

文章で言うと誤字や脱字・意味の間違い・構成上の読みにくさを省いて省いて整えて、誰が見ても綺麗な状態になったうえで、好みにも近い芸術点が足されるみたいな。
それが記録であることに変わりはなく、面白い文章もスコアアタック制だ。

羽生結弦や内村航平を素人目に見てもキレキレで美しいと思うように、見苦しさはできるだけ少ない方が大衆にも審査にも高く評価される。
ノイズがないほうが洒落て見えるのはファッションでも同じだし、ポジティブな評価はネガティブな評価になりうる部分を削ぎ落しまくったほうが得られやすい。思い返せば当たり前のことだ。


刀も荷物も持ちすぎると身動きが取れなくなる。
達人のロロノア・ゾロでも三刀流で、九刀流となると技名でのかっこつけになる。そもそも夢がないことを書くと、顎で咥えてまで三刀流をするメリットは明らかにない。
剣道を見ればわかるが、そもそも二刀流でも応用の扱い方だ。
四刀流だったらケツに挟むくらいしかなさそうだし、もっと増やすならクロネコ海賊団のクロくらい魔改造がいるだろう。

結局のところ落としどころは1つか多くて2つでいい。ごちゃついて動けなくなる前に、本気で戦うなら余談という増えた刀は捨てるべきだ。

「荷物が多いと身動きがとれなくなるよ」ってスナフキンも言ってました。スナフキンってミニマリストのはしりってことですか?


本来ならこういう例え話も1個で抑えるべきだ。2つも3つも書いちゃった。

今も部屋が汚い。
ゴミ袋にできるかもと思ったコンビニのレジ袋がそのまま床に散乱している。文章の断捨離をできるようにするには、まず見える床の面積が増えてからかもしれない。

こなまるでした。


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