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褒めたいけど、会話はしたくない時がある【長々々雑記】

久しぶりに「ですます調」で書いてみます。
ちょっとだけでも誰かに伝えたいんです。

こなまるです。お世話になっております。どうも。イヨッ!

普段の日記は基本独り言で、「見てくれてありがとっ☆」という気持ちで書いています。
ですます調、いつもよりだいぶ中学生みたいになっちゃいますね。書き方の問題か。
タイムカプセルの痛い手紙みたい。
でも、手紙にしては聞かせる気ないくらい長いです。スクロールバー見て察してね。

そしてこの記事はずっとこの感じで書きます。ご容赦願います。

この文体を選んだのも、これを独り言としてしまうには明らかに対象が定まっていて、それに複数の人が思いついているからかもしれません。

記録というより、回り道してでも伝えたくて仕方ない!みたいな気持ちそのまま。一方的な雑談みたいなものです。

先に書いておくなら、僕が普段「スキ」を押している人たちに対して伝えたいことです。あるいは、スキを押してくれる人。あるいはnoteを健全に使おうとする同じ趣味の人全体。

「やり取りが既に確実に発生している褒めたい身内の誰か」というよりは、「明確なやり取りは発生してないけど褒めたい知らない誰か」に対しての雑記です。


基本すごいポジティブなことしか書かないから、安心してほしい。思想はちょっとネガティブ寄りだけど。悲観的な部分が大きいがゆえ悩んでるだけというか。

特別いま時間があるからハマっちゃってて、もっと言いたいけど言えてない感じがあって。
読み返して自分でも平和ボケに見えるし、30スキを越えた記事が2つ出てきて、ちょっと嬉しくなっただけかもしれないけど。


かなり「スキ」ではあるけれど

2か月くらい前に非公開にしていた自分の「スキ」欄を開きっぱなしにして、「この人はこんな人も見てるんだ~」を見ることができるようにしました。いつか閉じたらごめんなさい。

今すぐ/このあとプロフィールに飛んで、わざわざスキ欄を確認する人も少なからずいると察しています。
僕も他人がこう書いてたら気になるし、別タブ使ってサッと開いちゃう。

僕のスキ欄の場合は好みが露骨で、系統にわけて分析するのも憚られるほど偏りがあります。多分。(こう書くのも系統にわけて分析したからだけど)

素直だとか苦悩だとか吐露だとか言い回しだとか、さらけ出しているような文が生まれつきレベルに好きなのかもしれないです。両親がそうだからかも。

自分が能動的にスキを押す人/記事たちのことを、本当はもっと褒めたいです。
でも言葉で褒めたくても褒めらんない。理由はあとで。

その理由もかなり利己的だし。
幸せで小さな悩み、器が小さいだけ、気にしすぎ、ではあるけども。
noteには「文章主体」って性質のせい/おかげで変に気が弱く器が小さい人ばかりだと感じています。悪い意味じゃなく。

だからこういう悩みも別に共感されなくはないんじゃないか、って思います。
褒めたくても褒められないって思う人が、僕以外にいてもおかしくない。

いまよく読んでいる人もたまたま同じくらいの時期に始めてたとか、ずっと前から最近まで毎日更新が合って飽きないとか、自分にはない考え方が吸えるとか。
読み始めた理由はたまたまでも、読み続ける理由は自分にとって面白いからです。感謝。

他人の取り留めない文章自体がそもそも好きだから、探して増やしてもいいんだけど追えなくなるのも……というジレンマもあって、楽しい悩みになっています。

なんにでもスキを押しているセンサーの緩さに見えても、凄まじい悪意や理解が及ばない思想にスキは押せていないです。あと開いていない記事も。

読み飛ばして大丈夫な、僕の好みの話もします。というか全文テキトーに読み飛ばして大丈夫
「現在」を切り取っただけの、その日その時点の感性で残っているものが好きです。過去の投稿まで追うことはあまりしていません。

逆に言うと、過去日記まで遡ってボタンを押している人は「うおおもっと食わせろ」と僕が思っています。ヤッタネ。

たぶん順当で抜群にいい文も更に埋まってるけど、探すまでの気力は無くて。
本当はもっと本屋さんや図書館で文学探求に走ってもいいはずなんですけど、それもなんか食指が動かなくて。

「他人の取り留めない文章」って言葉、めちゃめちゃいい意味として書いたけどそうでもなかったらすみません。
僕自身が一番取り留めない/どうでもいい/なんてことのない日記を書いていると自負しているし、これは特別褒め言葉だと信じています。

書き始めで既に媚びているみたいに見えるし、括弧書きや茶化した書き方をするのも、前置きが長いのも照れ隠し。

補足で「どっちの気持ちもある」って書いとかないと、なんか気持ち悪くって。メタ認知というか、わかっちゃいるけどそれじゃ書けない、みたいな。

いつもXに紐づけて投稿を告知するけど、これはしないかな……。

前にもこんなことを書きました。
1ヵ月で想いが発展したし、それに従って「伝えたいけど伝えたくない!!!」みたいな気持ちを書いておこうと思った次第です。(見せたくないのに見せたい手紙みたいになってる)

あともう一つ、この雑記は「こういう幸せな悩みです」と書いて間接的に伝えつつ残してみたいだけで、解決しません。
書いていくうちに気分が変わる、くらいはありえるんですけど。
なんなら放置のほうがいいような。

なんで直接褒めたくないの?


真っ先に挙げられる理由は「会話になってしまうから」

陰気な理由ですね。

褒めることにおいて、伝えたいことを伝えることにおいて、会話が目的じゃないことがあります。このタイトルで書き始めたのは、間違いなくこれがほぼ全ての理由だからです。あとは全部蛇足。

逆も然り、褒められることと伝えてもらった場合も、なるべく会話にはしたくない。
ただ全部一律で会話にしたくないわけでもないですが。お喋り好きだし、自分がいいと感じる人のことは好きだし。

チャット的な業務連絡において「返信不要です」などとつける場合に似ていて、この気持ちが過剰にあります。ただでさえ過剰な思いやり文化の、もっと過剰な例ですね。

LINEもスタンプを送り合って終わる”暗黙の了解”っぽいものに安心しちゃう。Discordのチャット、Xのダイレクトメッセージもスタンプ機能で終わらせたい。Xのリプライのいいね返しはSNSを使う日常で最たるその例です。
「不必要に会話を続けない美徳」みたいなのがうっすらある気がします。

「会話が発生したら、やめなきゃいけない」ということにモヤモヤを感じることがあります。これに関してはnote関係なくエッセイ的な部分なんですけどね。

どこまで続けていいものか、相手はどこまでコミュニケーションの継続を求めているのか、求められているのか。長いとダルいもんな。
ダルくないだろうか。というのも自分で「ダルい」瞬間が大なり小なり過去にあったから。

お喋りは好きなのに、会話が続くのは漠然としていて怖い。

名だたる小説家ですら、「沈黙」や「よくわからない他人と一緒の時間」に悩んでいます。多分、おそらく、きっと、知らんけど。
逆に書くなら、そんな小さなことに悩むから小説家になれているのかもしれません。

会話の漠然とした継続への倦怠感、長い沈黙への恐怖感。漫然なまま、急にやってくる。

僕はどちらも全然ないってことにしていますが、こんな記事をざっと書いちゃうからには客観的に見て怖がっているんでしょう。
たとえば10分間だけ、かけあいを6回だけ割り切って話しましょう、なら無理に話せるけど、それって踏み込みたいからやる形式だし。

文面でも、会話の形式を取るとそれがある。
たとえばLINEでも、既読や未読やその返信スピードを気にしてしまう面倒さがあります。

それが会って話せる人の時、重要な用件でないならLINEじゃなく会って話したいという人は身の回りにも多いです。
それは文面だけのコミュケーションが不器用だからだし、長い会話がダルい場合があるからで。コメントやチャット形式でよく分からないトラブルになることは自分の過去にもあって。

その沈黙に対して、たとえば本当に自分が気にしてないとして。
自分が気にしなくても相手が気にするんじゃないか?なんて問いを続けに続けるから書いちゃうんだと思います。

等しく問いと解を長く書けるのに憧れてnoteに来ちゃったというか。そうじゃない人もいるだろうけども。
お近付きに……と積極的には思ってないからこそ、褒めと感想を書いて直接渡せないというか。

もっともっと直接的に書くなら、下心が入ってないように感想を手渡すことはできないと思います。
性別関わらず、「仲良くなりたいんかな?」って構えるとそうでもない。
やり取りがしたい、お話したいんじゃなくて、続けてほしいから感想をあげたい。
でも手に取るようにわかるリスクがある。

……ひねくれてるから文章主体のSNSなんてやっちゃうんじゃないの?Twitterが、Xが好きな人はnoteにハマる素質なんて誰でもあるんじゃないの?ネットが好きなら書くのも好きになっちゃうでしょ!!僕はそうだし!いやいやいや見てる人全員が陰気臭い根暗だって言いたいんじゃなくて!ああ!!あああ!!帰んないで!!!!いや帰ってもいい!!!!帰ってもいいんじゃないか!?!?!?これも問いか!?!?!?そもそも根暗でもいいんじゃないか!?!?!?これは根暗にあたるのか!?!?!?

また問うてしまった。フォフォ。
メタ認知と哲学もどきは人を狂わせますね。

この、興味はあるけど知らないままの人がいる飲み会のような、放課後の気にかけている友人との帰り道のような、気は合いそうな雰囲気があるが喋らない同僚との仕事のような時間。

会話が発生し得るが、ただ会話が目的の全てじゃない状態。
好意というか、褒めたいだけというか、興味というか。それを口に出すにはリスクがある。

たぶん、会話にならないから文章を書いているところさえあります。あくまで僕はですが。

熱量はあるが伝わらない伝えられない好意が、noteやブログみたいな文章への感想でもありえます。
「ほっといてほしい」の究極系が「他人を褒めることができない」なのかもしれません。でも本当はもっと褒めることができるほど感情が揺れている。でもボタンひとつで収めるのがどうも無難。

コメント文化が全然発展しないのも、こういうところが要因のひとつだと思います。
考え過ぎちゃう人と面白がろうとする人/面白がらせようとしちゃう人だからこそ、noteを使い続けられるというか。

すげーよ!あんたらもっと自分の文すげーって思うべきだよ!……こういう気持ちも露骨すぎるとわびさびもないし馴れ合い感も出てしまうし、嫌う人は嫌うだろうと思います。
ほぼほぼ素人だし、やってる以上ダサさが出ちゃうのはしょうがなくて。

自分に向かうと嬉しいはずなのに、配慮しない方が楽な部分まで配慮してしまう
「他人の面倒な部分を無視するって、コミュニケーションのトロの部分を棄ててしまってる」みたいな言い方の人もいました。どうでしょうね。

たとえばこちらが好きなだけで毎日見てボタンだけ押している人に、間が空いてからただ一件だけスキを返してくれたこと。「たまに見られてはいるんだ」と思ったこと、異様に嬉しかったです。

同様に、フォローを全くしないと決め他人の文章は見ていないようにすら見える人からのコメントも嬉しい。

スキをしないことに決めているように見える人から、肉声の会話で「見たよ」と言われることも。むしろ嫌味や下心なく伝えるなら、通話電話のタイミングでたまたま言ってくれた、が一番自然です。
こういう想定外に評価されたことも嬉しい。

逆に毎日スキをくれる人。
この人の文章が上がった時に毎回それを見て返すようにスキを押すのも、別に「お返し文化」に従ってるわけじゃないんです。

本当に面白がっていて、どこかそれで感情が揺れてしまうとこがあって、自分になかった言い方があって、どこか一面だけ切り出すと似ていて。

他人ってそういうものだけど、文章って形に残して公開する気持ちが一番の性格の一致に感じていて。親近感と近づきにくさが同時にあります。

作業のようにボタンを押したことはただの一度もないつもりなんです。
まあ、「つもり」ですけど。熱量や意識なんて人によるし測れないし。全員一律の「スキボタン」があるだけで。(このひねくれ方だから容易に他人を褒められないって書いてる)

でもやっぱ、褒めるの勇気いるわ。

懺悔みたいになっちゃった!


生きてて問いの多い人同士で惹かれ合ってしまうけど、問いが多いからこそ触れようとは思えない。というか、問いを表に出す人同士か。問いをずっと隠す人もいる。

問いっていうと変だけど、興味や知的好奇心の強い人はその分嫌いなものも多いような。地雷っていうんでしょうか。

好きの反対は無関心、嫌いの反対も無関心。好き/嫌いとは関心です。だからこうねじれるし、そもそも何にも関心がない人は珍しい。

サブカルの界隈にいる人も、傍から見てそういう人が多いと思います。
ねじれているというか、変に卑屈になってる(主に僕が)。
今ではそういう文化をサブカルというのかも怪しいですが(これもひねくれてる)。
似ているからこそ、やりにくい部分がある。

趣味が合っても空気が合わないことがあるって、別の問題かもしれませんが。

……空気って漠然としてる単語は、思想・会話の間・品性・共感の程度……なのかな。

どれくらい下品なのか、下品で許されるのか、なんてわかりやすい。
「バカクソ面白かったです!」と書いて、相手がそういうつもりじゃなかった時にどう受け取るだろうか。僕は大丈夫だけど。

それと同じく、こんな長い文を書くウジウジしたやつ無理だぜ!って思う同じ趣味の人が居て当然というか。

僕がXでオモコロ好きをフォローする時、ボカロ好きを、邦ロック好きを、Splatoon好きを、ボードゲーム好きをフォローする時も同じで。
相応の覚悟がいるというか、上から20件の呟きを見ても時が経って急に合わない時は合わないし、noteでもそれは同じです。

こういうの書くのも、noteで急に思い切ってXのアカウント見せる人がそれなりに居て、それに食いついちゃったからかもしれません。

こんなに言葉使うの好きでやってね~わけね~じゃんよ~!と思いつつ、見せないよねそうだよね~と思いながら。
知らない人間同士、積極的に関わりたいとはやっぱ思えないよね~。

これは、縁が切れることへの怖さもあります。無駄に思い入れたくない。合わない人に合わない!と関係を切り切られる時に、思い入れていたくない。

たとえばコミュニケーションを取るようになったあと、極端に反りが合わない時にしてしまう離別や縁切りを一瞬受け入れられない。
ネットは簡単に繋がりを切れてしまうぶん、余計に。

SNSを11年やっていても、意図的な疎遠を直視できない。直視させたくもない。
好きだけど向いてはない。ネットというか、社会と世界自体が。

怖がっていては交友関係が増えないのも承知ですが、交友だけが目的でもない。
見ていたいし、褒めて伝えたいけど、仲良くなりたいとはまた違います。

「相互監視関係」っていうTwitterで話題になった言葉に、当時から凄い頷いてました。
存在を認めて見たがっているが、支持しているわけでも100%の好意で見ているわけでもない。

Xに関してあんたのふざけた短文も見たいぜ!って人もいるけど、わざわざ探してフォローか……?って気持ちが勝つ。

別にネットで関係を広く浅く保とうとしてるわけでは全然ないし、そこらへんの誤解もイヤで。SNSは「監視関係を増やす」が近いんですよね。

仲良くなりたいこともある時はあるけど、それはもっと込み入った感情であって、それもだいたい話してみてからとかコミュニケーションが自然と続いた時とかで。
「たまたま仲良くなることもある」みたいな。

類は友を呼ぶというより、類が合ってないと残っていかないんだと僕は思っています。

生きててわからないこと……問いと地雷が多いから、興味はあるけど触れられない。簡単に言うとひねくれてる。

これにつきます。全オタクの悩みといっても過言じゃない。全人間そうかもしれない。こうやって大きく括るのもなんか違うし反感買うな、って思うくらいには問いも地雷も見ようとしてしまうものです。

「教室」みたいな単位でもそうでした。
磁石が反発し合うみたいに避けて、なんとなく好きなものは合いそうなのに、アピールするような仕草しかできない。

だから「気にすんな!来い!多少は違う!だが話せ!」の人間か「物理的に距離が近え!話しちゃった!話合うじゃん!また話そうぜ!」の人間しか僕の周りにはいないかも。みんなそうかも。

インターネットのこういう微妙な距離、「なんか近くにいるような感じがする」「一応認識しあってはいる」は学校の教室に例えられます。

たとえばこういう悩みを持つ子が客観的に居て、僕が陽気なクラスメイトに扮して。悩みを持つ子にそう相談されたら「気にしすぎ!あいつ褒めたいだけなんでしょ?褒めなよ!」って言うはずです。

ポジティブなのに辛気臭い悩みの意見を生み出したのも、これに陽気な意見を言える人を思いついているのも僕ですが。どっちもわかりたいから中途半端。

それがぶつかった結果、「解決しないでいいから聴いてくれ!」ってこの記事になっちゃってます。そこまでのポジティブな熱量があってなぜそうしないかというのも、逆側に同じだけのネガティブな熱量があるからで。

ソジャナイネン!!!!と言ってしまう陰気な子の、書いて置いておくだけ、みたいな記事。

「応援してはいますよ」のフォームを取る。
ガン見しながら「いいえ?続けてちょうだい。」の姿勢で座る。

おそらくXやカクヨムの同人小説界隈・TRPG界隈ではもっと込み入ったことをしています。マシュマロ・ほめてばこ・質問箱に代表される匿名褒め文化があったり、なんなら馴れ合うように直接褒め合ったりもする。配慮につぐ配慮でふせったーなんてネタバレ防止システムすらある。

同じインターネットの中なのに文化圏の違いがあるというか。特定のミームや用語も「ネット方言」みたいに思うことがあります。それくらい文化が違います。

それを取り入れたいとも思いません。
そうなっていないのにはそうなっていないだけの理由があると思うし、実際noteを使って相互にコメントをつけて褒め合う明るいコミュニティもあるはずだし。

見えてる部分で書いていて、相手を気遣っているようでいて自分の問題。そもそも「僕が褒めたいけど褒められない」「相手方はどうでしょうね」で複雑に考えてるだけです。
距離を取りつつ具体的に褒めるのは、結構難しい。

匿名の褒めをnoteに持ち出してちゃんと理由を考察するなら、「それが手軽にできる機能が存在していない」になるんでしょうけど。
匿名褒め褒め機能がコメント欄の下あたりにあったら、たぶん僕は送っちゃうタイプの人間です。

ただ一概には言えないんですが、それがないこともnoteのよさだと思います。

褒めが匿名すぎないから素直に受け取れる部分もある。相手も書いていることが多いから「見返りを求めてか?」と疑念を抱きつつも嬉しがれる。

実際匿名が故に送られる非難も、そういう匿名褒め文化の界隈にはありそうです。

非会員ユーザーのスキは別で「元々全然興味ない人が押したってこと!?!?」みたいな気持ちになれる良いものだけど。

書く限り全員ジレンマがある

まだ書くの!?と思われちゃうかもしれないけど、まだ書かせてもらいます。白紙が続けば、それについての思想や思考くらいは駄々洩れで喋りかけるのが僕です。
そういう星のもと、そういう親と環境のもとに生まれていて、ネットで育って、今たまたま時間があって。気が済むまで書きたいんです。

張り付いているくらい熱中している、このnoteについてなんかは特に。初投稿日時はさておき、毎日書くのは3か月しかしてないのにねぇ。

熱中したMMORPGみたいに、老後に思い出として語ってしまいそうな異常で中毒的な熱中すらあります。
小学5年生からTwitterをやっていて、メタ認知したがる自分がいて、ずっと自分の意見がどっち側にもある感じが気持ち悪くて
きっと前から言葉が吐きたくてたまらなかった。それで誰かとリンクした瞬間が、なんか心地よくて。

聞きたい人だけが聞いて、吐く分には誰も見ていなくたって吐ける。
それへの反応と監視してされている人が見えてしまう(FF数/スキ数/いいね数)のは、こういうサービスのいいところでも悪いところでもあるんですけど、それは置いておいて。

書く人にはきっとジレンマがあります。

「noteがSNSらしすぎて気持ち悪さがある」という記事を見たことがあります。気持ちがわかります。

「noteに移行する必要なんてないと思う」とXで言われたこともあります。僕は稼ぐのが目的じゃないし、言いたい事はお察しします。

「このまま書き続けて何になるんだ」と、思ったまま書いている人もいます。僕もです。他人のその素直さもありがたく感じます。

「noteはなまじなにかをした気分になるぶん、Twitterより悪趣味だ」なんて、そう吐き捨てながらも書いてしまう人もいます。一理あります。

というか他人の文章、自分の文章すら「一理ある、一理あるだけ」「面白い、面白いだけ」を前提で読んでいます。

noteじゃなくても、疑問があって、形にしてしまって、残そうとしてしまう人ってみんなそうだと思っています。

特有の葛藤がある。そもそも悩みやすい人間なのに、なんとなく書き続けながらのジレンマがある。素人の思考って残していいんですか?っていう。別媒体だってあるし、やり方だって選べるのに、「なんかな」と思いながら書いて残しています。少なくとも僕は。

「文章で稼ぐため・ライターになるため」「有料投稿に踏み切るためのステップ」「書籍化するため」「誰か役に立つため」「伝えるため」「娯楽として」「記録として」「証拠として」「練習として」。

人によって目的も様々です。もっとカードゲームの有料解説だとか、情報商材だとか、僕の知らない世界もnoteに広がっているとたまに感じます。

僕は何で書いてるんだろうねぇ?と僕から僕に聞けば、答えを日記にだって書いてみているけど、全部が全部本心と言えるかは微妙なところです。

この記事の文量も特別多く残しているだけで、毎日これくらい感じながら書いています。これが誇りでもあって、嫌いなとこでもあって。

僕の目的で言えば、違和感とメタ認知的な気持ち悪さをどばどば吐き出したいだけかもしれない。

これは僕から僕に対してのお悩み相談みたいなものです。
最初にスキをいつもしている人向けと書いておきながら、にはなりますが。

読み続ける側も同じくジレンマがある

読み続ける側にもそれなりにジレンマがあるんだと思います。
実体験としても、読んでる!って言ってくれる知り合いを見ても。

「最近読めてない」「あの日読めなかった」って言われるたび「んなこと言うな言うな!これ毒だよ!人によってはおいしい毒!」と感じています。
「たまにでいいんだよ~」と返信するんですが。

他人の日記も毒だとしたら、僕も毒が好きで、とりあえず記してあるだけ愛おしいです。
インターネットには表情がないから、コミュニケーションの可否が選べるようなものだから、体温なんて直接感じはしないから。
想像できるし、想像で済みます。

不器用で、素直で、悩んで、書いてしまっていて、書きたい事が伝わってきて、でも書きたくなくても書いてる時があって、取り繕っているように見えることもあって、どこまで本当かわからなくて。時に面白がらせようとしてくれる。
でもキッカケでもない限り、不思議と会話したくはない。

知りもしないどこかの他人の感情なのに、どっか引っかかってリンクしたり、発見があったり、逆に反論や怒りを感じたり、疑ってかかったりできる。

やってることはコミュニケーションに近いのに、感情は扱えるのに、会話して接しはしない。だから面白い。
楽しいから、不用意な褒めで干渉したくない。

引用だってもっとしたいんですよね。
でもさ、通知いっちゃうし。

誰かに的外れにされる引用の感想、やっぱちょっと嫌な時あるし。そう解釈できるように書いた自分も悪いかもしれないけど。

「何言ってんの?」と思いたくない、思われたくない。そんな感想に自分がなってしまうのも嫌だし。ウケてほしいとこでウケなくて、そこウケるんだってとこでウケちゃうのが見えると、ちょっと自信なくす時もあるから。自分勝手です。

僕はそういう「いつもこの日記の人なんか嬉しそう/悲しそう、真面目/ふざけてて面白い」みたいな楽しみ方で押しちゃうときもあるし。
なんでも傷つくしなんでも嬉しがる自分からすると、直接の言及って干渉に他ならないような気がして。

臓器提供意思表示みたいな、どんな褒めでも受け取ります表示が欲しいとさえ思う。
どんな褒めでも一概に嬉しいとは、実体験からは言えない。それでも僕はどんな褒めでも欲しがるけどね!

文モクです

しばらく書き続けていて、「文モクです」と自称する友達の知り合い(というか長いネット友達のリア友みたいな)と知り合いました。
こういう褒め方をされました、っていう一例でしかないけど。

知り合ったというか、たまに監視されているだけというか。文章が書けそう、書いたことありそう、本当は書くのも好きそうな僕からしたら謎の人。この前は言語学の本をすすめてきた。

「文モク」はたぶんヤリモクだとか飯モクみたいな言い方で、目的は文、文以外には興味がないけど、あなたの文のことがすごい好きです!みたいなことだと思います。

たとえば異性だから、同性だとしても恋愛対象となってしまうとイヤだから、みたいな変な意識の部分と先入観がやっぱちょっとずつ存在しちゃうのかな、と思います。

この記事全体がめんどくさいけど、こういうめんどくさい考え方なりに、この人は返しの言葉を準備したんだなって思って。想像すると、実際異性の方が断トツで褒めにくい。

「文モク」って言葉にすっげ~~~~~~~!って腑に落ちたというか。
語源というか作り方はちょっと現代的で物騒だけど、やっぱわざわざ見てますって言うだけあって言葉使うの上手いな!!!ってそれだけで感動しちゃって。
言ってしまえば、noteもこの表現への感動の延長でスキを押しているし。

僕も別に男女も友情も元々ないはずの陰陽も関係なくて、感情とその記し方に興味があるだけなんですよね。文モクとまで言い切るかはさておき。

そもそも他人の不快感が文字にして読めちゃう時代だからこそ、この要らない気遣いに至るんですけど。

その人が普段以上に精神病んじゃってる時に「今じゃ長い文章も書けないし他人の文も目が滑って読めない時にちょっとやだ」みたいに言ってて、「労わりなはれや!!!」と思った。無理して読まんでええ。一汁一菜でええんです。
うろ覚えだし、距離感遠いからそれすら言ってないけど。

なんてったって、文章の基本はおいしい毒。読めない時はあって当然。僕もコーヒーは1日6杯目から飲めませんもの。

長文すぎるくらいの感想文で、自分の日記の一部をスクショしてダイレクトメッセージされたのなんて、その人が初めてだったんです。感想の長さで言えば、熱量が一位の人。

その時も「毎回感想を真面目に文章化するとかなりキモくなるので、想いがより強い時にまた送ります」とだけ来た。そこまで卑下しなくても……なんて、僕は言えないですね。僕みたいな意図があってもおかしくない。

読む人も、読む人なりに葛藤がある。

だからえっと

解決しないわな~。いい状態の、幸せな悩み。
「もっとハッキリみんなを褒めるッス!」って決意する着地でもいいんだけど。

書くのも読むのも好きだ。最近気づいた。
これで自覚ないのヤバかったなと思うけど、情報が、知識が、ユーモアが、人の感情がずっと好きだ。

ただそれゆえ褒めたい時に悩む!
仮定を飲み込むと両方やる人ってすごい幸せに悩んでるんじゃないの?って話になるんですけど。それが今の僕!!!!!!(でも無職じゃんと思っている)

スキをしている人に、スキをするたびに「ここウケました」って一言を返信不要なこと前提で添えたいほどです。
逆に受け取った時ももっと素直になりたいんだけど……もうこれ以上は書かなくてもいいか。

この熱意を前提として好意が伝わったら嬉しいし、なんなら求められ次第短文か長文で無理やりでもファンレター送れるから、欲しい人は直接言ってください。

会話はしたくないんだけどね。(何なん?)

ひとりごと

女子中学生みたいな文だった。
自分じゃないみたいだし、もはや読み返せないし、よく覚えずまた日記を書くと思います。こんなに書けるんだなあ。

人に話すように書く時は恐らくこれが僕だ。
聞いて聞いて聞いてよ!と思っている。早口とイタさで出来ている。初音ミクの消失と銀魂に憧れた女子中学生オタクのエッセンスがどこかにある。
だから受賞目的でタグをつけて文を書くのも苦手だ。
聞いてほしいと聞いていただくでは、全く別だから。

この感情の振れ方が毎日ではさぞお辛いでしょう……という同情のスキも、この記事ではジャンジャンお待ちしているぜ!
あと誰もここまで全文は読めていないと踏んでいるぜ!全部見てもらえるはずがないぜ!
関係ないけどお悩み相談もいつかやってみたいぜ!
「この言い方好き」が一番刺さるぜ!
書きたい放題だぜ!

あと書いてないことで言えば、僕が他人を褒めようとすると

「エピソードギャグの帝王だと勝手に思ってる」
「ピュアと気づきと気弱の塊、癒しを感じて毎日見れる」
「現実味のある素直で健気な夢追いの、実在するかギリギリに見える儚い描き方の日常が美しい」
「グルグルとして散らかった暗視大学生活、心情にモヤがかかったまま写し出されてて共感する」
「文章だけで声がデカいのが伝わってくる、ありのままの書き方が楽しげでなんか嬉しくなる」
「コラム的で整然とした、頭の片隅に留まってくれる考え方のヒント書き屋」
「記録用でありつつ、やりたいことをして目に光を感じる人の毎日の気づき」
「キラキラともモヤモヤともしている継続日記の、たまに光る真珠みたいな詩的さ」

みたいに変にかっこつけた嬉しいのか嬉しくないのかわからない偏見になる。んじゃ許可制の方がいいだろ!みたいな気持ちだ。

長文感想おじさんがズレてると「ありがとう、ありがとうだけどごめん」という気持ちになる。1対1だと読まなきゃいけないスーパーチャットになっちゃう。

本当はこの僕の「ウザがられる褒め方をする」「自分にも褒めをウザがってしまう時がある」部分に問題があって……嬉しいのに……。
過剰に想像するとできひん……うぇ……。

あとこの記事、および僕のnoteはコメントむしろ推奨してます!!!本来は勝手なので!!!ただ返さないことが多いかも!!!

スクロールバーを使って、スマホで高速スワイプをして、目次を使って、はたまた本当に全文読んで、わざわざここまで辿り着いてくれた人もいるのかな。

よく知らない人の文の量だけでも見てくれるって、凄いことだと思うんだけどな。1万字あるんだってさ。

いつもありがとうね~!

これからnoteに書き続けるのやめるんか!?くらい過去形で熱量あるけど、本来こんなもんだしいいか。
やめないよ〜。

そういえば、こういう文章を書いてた時。何処からか湧いていたモチベーションが急になくなってやめた。その時に、間接的にだけど「実はずっと読んでて好きでした、更新待ってます」と言われたことが1度だけあった。間接的にだけど。

凄く嬉しかった。だから今でもたまにこうやって何か書きたくなるんだろうな。傍から見たらただ褒められただけで、ありがちかもしれない。

書くことも楽しみ反応も貰えたことで、自分はとてもラッキーな人間だと感じることができた。

言葉だけでは消えてしまうから、形に。/2020年8月7日の粉奈丸のnote

まだまだ嬉しい褒められが起きるぞ!

自分の凄いところ、これに恥がほとんどないところ。すごいぜ!

恥と照れ、ないことにしてるだけか。

こなまるでした。

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