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努力する才能って単語はうるさい 23/12/28

起きてからほぼひとつの作業しかしていないせいで、日記に書くことない!ヤバい!と思いすぐに編集画面を立ち上げた。

300枚撮った写真を短文で説明して記事にしているのだけど、シンプルに量が多い。あと午前10時に起きて13時まで二度寝したせいで、そもそも始まりが遅い。
これを書き始めているのが午後20時だから、少なく見積もっても5時間は同じことをしていた。なにかにハマれるだけ、没頭できるだけいいと思う。

今日した会話で、詳細は省くけど「文量を多く書くのに体力を使わない人」という評価をされた。確かに。
とりあえずなんか書いとけ精神で連想ワードは全部ブチ込んでいて、これでも「書きたかったけどギリギリ取りこぼしたワードが毎日ある」くらいには文量を書くのが苦じゃない。こういう適当に書いていい場では、だけども。

作業の合間にちょいちょいみたXのタイムラインで、「才能とは」みたいな話をしている人が居た。
曰く「アニメを1日に何時間も見れるのは天才。私は5時間で限界。才能ってこういうヤツ」みたいな。とても共感した。

それに苦がないまま素で続けられるかが才能。
僕なんて20分のアニメが単発で持たない。普通に途中でスマホ触っちゃう。「一応行為としては可能」の人が話しているから、こういう話じゃないかもだけど。
そこから知識がどれくらい入るとか上達していくとかは努力によると思うけど、そもそも同じ行動を狂ったように継続できる時点で才能だと思う。

関連して棋士の渡辺明さんの話も思い出した。息子に将棋を教えようとして初めて自分の才能を知った話だ。
「突出している状態」になれるのは努力もあって才能だけの問題じゃないけど、「それが素で行えるか」は才能の問題だ。センスというか、勘でできるかどうかというか。

あと「努力する才能」なんて言うことがあるけど、努力って全体的な問題すぎて言葉として不適切だと思う。才能はほとんど個の問題なのに、全部に応用できるような口ぶりなのが腹立つ。あくまで僕は。
勉強に対して頑張れないのに絵だけはいっぱい上手くなろうとしてきました、なんて人は沢山いる。
努力する才能があるとしたら「○○に対して努力する才能」であって、だとしたら同じ「○○の才能」で片づけた方がいいと思う。
たとえば将棋だとして、「将棋が勘で上手くできちゃう才能」「将棋に興味を持てる才能」「将棋に努力できる才能」をわざわざ分ける必要がない。

興味がどれだけ惹かれてるかであって、一度努力のやり方を覚えたからこっちにも応用します!あっちにもこっちにも努力できます!は全体的な努力の才能じゃなくて応用の才能というか……。なんだろう、これもちょっとわかりづらいな。

とにかく「努力する才能」はかなり違和感がある。
「これが極限まで頑張れる努力できる人だから、全然やりたくないであろうコレも上手くできるよう努力してください」って報酬なくミッションを渡されたとして、努力する才能で片づけることはできない。
自分なりに報酬があるから努力を応用するんであって、藤井聡太に「スワヒリ語を全力で覚えてください(笑)」と言っても断られるだけだろう。
まあアニメ無限に見れる話とは全く繋がらないけどね。

たとえ長いな。僕が興味があるもの以外に本気で向き合えないからこうウダウダ書くだけで、分かり合えない人とは分かり合えないままだと思う。全部に頑張れる人って全部に興味と報酬があるだけ。大谷翔平は多分そう。

「ひとたとえが長いと思える」のも「意識しなくても文が長くなる」のも素でやってるから、これは僕の才能と思っていいだろう。これが本当に楽しくてやってるだけ。しかも自分がこれをリサイクルみたいに消化できるから二度お得だ。

才能は素で苦を感じていないかだ。日記の文字数が多くなっている自覚はあるにしても、最近は本当に書けないことがない。一日一度のお喋りし放題ゾーンだと思っている。30分でここまで書けてるし。書くことが全くないからって思考のことを書いて文字数を稼ぐことができるのも才能だよね。
まとまりゃしないけど。

言語化や説明の仕方を覚えるのも、苦になる人には徹底的に苦になるからまた才能だ。
才能っていろんな才能が複合的に集まってできていて、わざわざ「それに対して努力する才能」だけを切り取ってると「なんにでも使えるのかな」って誤解する人が出ちゃうだろ。僕みたいに。

オタクくん才能才能ってうるせ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~!!!!!!!!!!!笑笑

僕が始めた話なのに。作業に戻ります。

こなまるでした。

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