覚え書き視覚問答
いや、実はもうほとんど覚えてないです。寝るとダメですね。
マルイコラボなんかのアニメキャラの衣類について。
そのキャラらしさを覚える、ということはこういうスピンオフやメディアミックスでもよく使われる言葉です。記号的な解釈でシミュラクル間の近似を見つける、あるいは異なる文化圏で同じ概念を表現する遊びは、キャラソン、コスプレ、昨今では「踊ってみた」なんかでもメジャーなものになってきていますよね。俺は自らのオタク性には劣等感を持っているのでこういうアニパロにもつながるようなことは考えたくないことなんですけど。
最初はこれ、Pキャラクタの話だと思って単純にそういう振る舞いがメディアミックスに求められている、ということにしていたんです。けど、こういう記号遊びは純粋なものではなくて、一度異なるカルチャーを噛んでいることが重要なんだと思います。思い返せばリグ・ヴェーダにもそういう企画ありましたね。キャラクターに現代の服を着せるやつ。また王道なことでいえばコスプレのメイクなんかも舞台系のコードとカジュアルメイクのコードをつないだところに実体が出力されていて興味深いです。
異文化同一語によるわかりみの追求、二次創作なんかだと「強めの幻覚」として言語化されているような気もします。作品の解釈を俺だけの言葉でぶん殴ってお出ししろ!そんな勢いの良さを感じる言葉ですが、「幻覚」ってなかなか確信をついてますよね。最近『知覚の扉』を読んだんですけど、開眼幻覚と様々な絵画作品をそれこそ確信的につなげて語っているんです。まさに「幻覚」だなって思います。さすが薬物と切ってもきれない我々はいい言語を使いますね。
話は変わりまして、知覚の扉。
ドラマチックな音声ガイドなんか最近話題になったりして、叙事詩の音読や古いところだとゴッホとゴーギャンのあれなんか作品としてかなり力を入れていますよね。それを通してあたかも深い理解を通して作品を眺めているように感じてしまうし、それが高尚なものとして感じてしまいますけどそれがそれとして現前していることによる感動は反比例して損なわれていくのではないかと。これは実際作品を読み取る言葉を言語にするか感覚にするかという話に尽きてしまうのですが、両方楽しみたいですねえ。大ラリで見たら変わるんでしょうか。
感覚という言葉がだいぶ人間にとって変なやつであることは写真の発明以降持ちきりの話題ですが、ここで私の体験を一つ。
私の原体験の一つに『黒執事』の拷問シーンというものがありまして、以降性別や本能、イデオロギーを強制されたり矛盾を孕まされ虐げられるような展開が好きになってしまったのですが、このせいで女性そのもののエロさより「女性」のエロさが好きに、とでもいいましょうか、恣意的に表象されるイデオロギーにどうしようもない執着を抱くようになってしまったんですね。それが彼自身の持つ属性とかけ離れているとより良いとも思います。これはもう衝動と言えるような心の動きなんですけど、おかしくないですか?衝動であることは確実なのに言語を挟み込んでいるという謎の状況。感覚が言語を支配しているとしたらだいぶ理知的な反応ですしそんなことされたら離人感感じちゃいますよ。感覚ちゃんは強い子だねえ、なんで?
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