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母の愛

(ドイツにくる時の12時間のフライト中にメモに書いてた文章)

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留学先のドイツへ行くには、実家のある福岡から一旦成田へ行き、空港近くで一泊してから翌朝の便での渡航となった。
福岡空港までは母が車で送ってくれた。
手荷物検査の列まで行くと、母の友人が私と別れた後の母を心配して来てくれていた。
時間も迫っていたので別れを惜しむ暇もなかった。私が「じゃあ、」と言うと、母は「かなちゃんハグ」と言って手を広げた。母の目は涙ぐんでいた。私も喉が震えた。

基本的に私と母の性格は合わない。
大体わたしが母にイライラする。母のオチのない長い話や天然ボケなところなどを毎度責めてしまう。母に私がマウントをとってしまうこともあったり、そんな自分が嫌で母と距離を置きたいと思うこともしばしばだった。生い立ちや時代が違うのだから合わないのも仕方がないのだけど。


人との距離はそれぞれに好ましい長さがある。
このことは中学生くらいの頃にふと気づいたように記憶している。けれど家族との距離は近くて当たり前で、近ければ近いほど良いと、長い間心のどこかで信じていた。
小学3年生のときクラスの友人とその子の家の前で遊んでいると、その子のお母さんが買い物から帰ってきた。友人はそれに気づくと私との遊びを中断しお母さんの方に走って行って「おかえり〜」とかわいく抱きついて笑った。ゼロ距離だった。すごく羨ましかったしかわいかった。
その頃には私は母親に抱きつくなんてとっくにしなくなっていたのでとても衝撃を受けたことを覚えている。「まだあんな風に甘えてもいい歳なの?!」と思ったし、「私もそうしたい」とも思った。けれど結局恥ずかしくてその後も母に抱きつけることはなかったな。

高校を卒業し大学生になると同時に、私は家を出た。(と言っても家から1時間程度の距離の大学の寮なのだが)
引っ越しの日、母から5万円を生活費として渡された時は自分で一人暮らしを懇願したにも関わらず、「こんな大金を私にどう使えっていうの?!」と突き放されたような気持ちになり心の中で嘆いた。(高校を卒業したばかりの私にとって5万円はかなりの大金だった)
引越し後1週間は寂しくて毎日泣いて過ごした。
けれど2週目からは1人の生活にも慣れ、涙なんかすっかり乾いてしまった。
その2年後、私は東京の大学に3年次編入のため上京し、そのまた2年後、関西へ就職した。
就職先の近くで家を探す時、母が関西まで来て一緒に不動産屋に行ってくれた。家が決まった後はそのまま三ノ宮で別れた。別れ際に2人で少し涙ぐんだ気がする。多分母は私が大学卒業後、福岡に戻ることを期待していたと思う。母は寂しい涙、わたしは申し訳ない涙だった。
一旦家を出た経験のある私は、もはやホームシックなどにはならなかった。むしろ家族の知らない自分の人間関係の中で居場所を作り、生きることに誇りを思っている。


家族だからといって、価値観がぴったり合うわけではない。個々の人にはそれぞれに「丁度いい距離」がある。
私と母の距離は今みたいに、簡単に行き来できないけれど年に数回会うくらいがちょうどいいのかもしれない。そしたら私も毎回の別れを涙ぐんで迎えることができる。
なんとも現金な娘だ。ごめんね。

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コロナがなかなか終息せず、かれこれ一年半以上日本に帰れていない。帰る目処も経っていない。
ビザの問題もあって帰ると戻ってこれないといのもある。
遠くから家族の息災を祈る。

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