家族の義務

どこまでが義務で、どこまで果たすべきなのか、考えている。


昨晩、母から今週の中頃にあった出来事を聞いた。

父が食事に使っているテーブルがあって、天板と脚で合計13kgくらい。動かせない重量じゃないけど、必要がなければわざわざ動かすものでもない、と思う。


父はこれを食事の度に動かす。何か彼なりのルールがあるのか知らないが、ガタガタガタガタ四六時中やっている。脚を床に引きずる音がうるさい。一緒に車椅子の車輪とブレーキもギィギィ音を立てるので、慣れたとはいえ耳障りだ。


またそれを朝っぱらからやっていたから、母が「お父さん、ちゃんとテレビの方にも向いてるし、ごみ箱も足元にあるし、テーブル動かす必要ないんじゃない?」みたいに言ったらしい。

そうしたら、キレて、「うるせえ!馬鹿野郎!お前は馬鹿か!死ね!死んじまえ!死んじまえ!死んじまえ!」と大声で叫んだそうです。


もう、これ、書いてて涙が出てくる。父親が母親にこんな言葉を向けたなんて想像したくもないし、たかがテーブル動かす動かさないの話だよ?馬鹿だの死ぬだの言う次元の話じゃないでしょうよ。

もうわかんない。どう接したらいいか、誰か教えてくれ。


平日の朝8時半くらいだったらしいから、当然私はもう出勤していていない。母もさすがにどうしようもなくなって、兄に電話したとのこと。

たまたま兄がすぐ電話に出て、父をいくらかなだめてくれたらしいけど、ああ、やっぱりこういういざという時は男の兄の方を頼るんだなあとか、そりゃそうだ私なんて大声聞いただけで怖くて身がすくんで声も出なくなってしまうんだから何の助けにもなれないんだから仕方ないとか。そんなことを思う。


自分に死ねと言った人間と同じ家の中で暮らす気持ちってどんななんだろう。今度そんな場面に私が居合わせたら、私は母を守れるだろうか。

怒鳴り散らした1時間後にはニコニコして、「ごはんおいしそう、お母さんありがとう」なんて言ってる父が、正直怖い。


いつまた怒鳴るか、暴れるか、次は1か月後かもしれないけど明日かもしれない、そう思いながら暮らすのは、家族だったらいつまで続けるべきなんだろうか。

常にじゃない、毎日じゃない、それは救いかもしれないけど、慣れることも諦めることもできず怯えながら暮らすのは、家族である以上義務なんだろうか。


もういいよって誰かが言ってくれたら、それにすがってしまう気がする。自分で考えなきゃ。頑張らなきゃ。近くにいるのは私しかいないんだから。


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