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名前のことを考えた

千と千尋の神隠しが大好きで、映画館に通ったしDVDも持ってるけど、放送されるとやっぱり見てしまう。なんでだろうね。
母にも「何がそんなに好きなの?」って聞かれたけど、「自分でもわからない」と答えた。ジブリ大好きってわけでもないけど、千と千尋だけは隅から隅まで愛おしい。


場面として好きなのは、千尋が銭婆のところまで行く時、リンさんが「どんくさいって言ったの取り消すよ!」って叫んで、それに手をあげて答える千尋の後ろ姿。あれが好き。絶対に行く、歩いてでも行くっていう根性が好き。


ということで、家族の形が変わってから初めて見た千と千尋。
銭婆に名前を聞かれて、千尋ですって答えて、
「良い名前だね。名前は大切にすることだ」みたいに言われるところ。


ああそういえば私の名前は父がつけたのだった、と急に思い出す。
娘だったので母から一字とることは決めていたそうで、じゃあそれ以外の字はどうする、となった部分を決めたのが父。
(例えば母が「直美」だから「●美」にしようということは元々決めていて、じゃあ「何美」にするの、みたいなこと)

私が生まれたと連絡を受けて病院に向かう途中に見た、季節の花から名付けたと聞いた。
あまり一般的じゃない漢字で、よく間違われた。でも嫌いじゃなかった。逆に全く同じ漢字の人にリアルには出会ったことがなくて、結構それも「私である」という自我の確立には影響していた気がする。


よく「名前は親からの最初の贈り物」と聞く。
まあ、確かにそうなんだろう。でも私は自分が親になったことはないし、この先もならないので、きっとその気持ちは永遠に理解できないだろうと思ってた。
でも、なんとなく、銭婆の言葉で、こういう感覚なのかな、と思った。亡くなってから感じるって、ずいぶん遅いなあ。自分でもびっくりしてしまう。


つまり私がこれからどう生きようが、立派に清く正しく生きようが、堕落してだめだめな生活を送ろうが、そこに絶対父からの贈り物はついてまわるのだ、死ぬまで。嫌になっても逃れようもないことだ。改名したって多分意識の上で完全に離れることはできないだろうし、そもそもしないし。


父の百箇日が近づいてくる。その日までは、いろいろ自粛しようと決めた。
でもいっそ自粛している間の方が楽だった。悲しみに集中できる。これからの方が怖い。どこかで父を忘れてしまうんじゃないかって、蔑ろにしてしまうんじゃないかって、そのことの方がずっと怖い。それだったらずっと喪中ですって言う方が気持ちは楽。でも、それは健全な生き方ではない。

それに、もし母がそんな生き方をするって言ったら、私は止める。つまり、私もそんな生き方をするべきではない。わかっている。でも怖い。いつか父がいないことが当たり前になって、遠い存在であることが当然になって、どんな人だったか、どんな声だったか、忘れていくことがとても怖い。


千と千尋を見て泣いたし、これを書きながら今泣いてるし、今日仏前に備える花を買いに行く時も泣いた。葬儀の時にもっと泣いておけばよかったのかな。もっと泣くことが今必要なことなのだろうか。

いろいろ、テンポがずれているというか、「今?」って思うようなタイミングばかりで、私って、めんどくさいな。

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