マーラーと1月

マーラー。この作曲家は、いまいちピンと来ない。交響曲はどれも長いが、私のような素人にとって聞きやすいのは1, 2, 5番くらいか。ベートーベンやメンデルスゾーンに比べれば、クラシックという言葉が似合わないし、かといってリヒャルトシュトラウスほどパッとする分かりやすさがあるわけでもない(と勝手に思っている)。そんな中、今月マーラーに触れる機会があった。

今月の8日、まだ2024年になって間もない頃である。私は東京芸術劇場で、マーラーの交響曲10番を弾いた。本人による完成は1楽章しかないため、今回演奏した全楽章はクックによる補筆版である。1楽章冒頭、ビオラだけが弾くフレーズ。指揮者の先生が棒をあげる前から、ホールの中の空気が見えるかのように緊迫していた。何とかそれが終わって色々な楽器が入ってくると、柔らかい音楽が展開されていく。しかし、この楽章でビオラが晒されるのは3箇所もあるため(しかも難易度は箇所を追うごとに上がっていく)、ドキドキしながら弾いていく。複雑な拍や綺麗なフレーズの3拍子が入った2楽章、短めの3楽章などが経過していくが、これらは全て5楽章のためにある。長大なものを経た末にやってくる4楽章の最後、そして5楽章の冒頭、ホールは驚くほど澄んでいた。フルートから始まるフレーズ、それにビオラの音を合わせるのが、至高の喜びであった。5楽章も後半になりFis-durになると、静かだけれども厚みと熱量がある音楽が進んでいく。Immer Adagio (nicht eilen!)に向けて、sempre ppからクレッシェンドがかかっていく。353小節からはいよいよオーケストラ全体が重さを持ってググッと進んでいく。音形、アクセント、弓順、全てにそれが現れている。その後、この80分の大曲の中で、私の最も大好きな音、357小節のFis (sempre ff)がやってくる。私は未熟ながら、サンサーンスのオルガン付きやシュトラウスのメタモルフォーゼンを弾く機会はあった。しかし、マーラーの10番、何と崇高な音楽であろうか!東京芸術劇場に響く、いや、音が鳴るだけで響きはしていないバスドラム、分厚い弦楽器の地鳴り、全てが崇高であり、人生のあらゆることから解放してくれるようであった。昨年の11月から練習していた時はその恐ろしさに気づかなかったが、まさか今年がこのような本番で幕を開けるとは思わなかった。

そして一昨日、同じく池袋の芸劇で、マーラーの5番を聞いた。
日頃は芸劇でステージに立つため、客席からステージを見たのは久しぶりだった。二階席から見ると、思った以上に広い。マーラーのシンフォニーのように大人数が乗ると壮観だった。前中のコリオラン、未完成の時から明白だったが、奏者は凄まじい量の練習をしてきていた。このマーラーには凄みがあった。弓のどこで弾くかや、指揮者にどれほど付けるのかなど、考えているというより、もはや筋肉に刻み込まれているという感じがあった。それでいて、弾いている最中にも考えている。知り合いの一人が、今回の演奏会で、このオーケストラを卒業する。マラ5のファーストバイオリンを華麗に弾きこなしていた。圧倒的な練習量で、客を圧倒してしまう演奏をするオーケストラ、実に正統派で清々しくもあった。自分が今やっているような練習を続けていても、これほどの演奏をすることは自分には一生無いのかもしれないと痛感させられた。

このような二つのマーラーに触れた1月。ともに会場は東京芸術劇場。この夏から改修工事(ホールのどこをするのかは知らないが)をするのが勿体無いくらい良い響きであった。
相変わらず、マーラーがどんな作曲家なのかは分からない。

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