溺れないように本を読む

辻村深月さんの、「盲目的な恋と友情」を読んだ。昨日の学校からの帰り道、本屋でふと目にしたから買っただけであって、気になっていたわけではない。ただ、気持ち悪いほどに外からの見られ方に対して気を取られている登場人物たちの中毒性は高く、日が変わる前に読み終えた。同じ時間を二人それぞれの視点で追う描かれ方も、この本を一気に読み終えた根拠となる、ある種の没入感を与えていたかもしれない。

物語のきっかけとなる、オーケストラの部活での日常の描かれ方や、部員の価値観は、実際に自分が入っていた現実の学生オーケストラとは大きく様子が異なるため、共感することはなかった。あんな振る舞いをする指揮者は、少なくとも自分は一人も聞いたことがない。しかしそれは些細なこと。むしろ、社会人や大学院生になってから、主要な登場人物二人が同棲を始めてからの生活に、果てしないえぐみを感じた。
大学生のするありふれた恋愛の延長のはずが、知らないうちに後戻りできない危険な領域まで足を突っ込んでいた。幸せの絶頂だった蘭花が、恋愛に深入りし不幸に嵌っていったのは、別の女の人に対する嫉妬と焦りが原因なのだろうか。私には本当のところは分からなかった。途中(ほとんど最後)までは、自分の欲のために、深入りを望んでいるという印象さえ持った。結局、止め方の分からないような巻き込まれ方をし、身も心も疲弊しきってしまうのは愚かだと思った。
留利絵は、彼女のそれまでの境遇がそうさせたのか、一旦居場所を見つけると、そこで認められたいという欲が肥大化していくように見えた。同時に、自分の「親友」に対する支配欲も出てきた結果、逆に、その存在に依存しなければ自分を保てなくなっていったように見えた。恐怖と心地よさが共存していた。
その心地よさは、彼女の他の人との関わり方に、自分のそれに通じるものがあったからだろうか。喉の奥や目頭に溜まる様々な感情を、口に出すことが躊躇われる。なぜ言わなかったのかと後で悔やみ、自己嫌悪に陥る。周囲の言動を深読みして、勝手に自分の中で変な方向に、嫌な方向に考えている。嬉しいようなやり取りがあっても、その中で相手が言った一言からまた深読みしてしまう。そんなつもりだったのだろうかとか、そう言えるのはこんな意識を無自覚に持っているからだろうだとか。線を引かれる、って表現を留利絵はしていたが、同じことを自分も毎日考えている。日々のコミュニケーションでこんなに情緒が不安定になっていては、疲れてしまわないだろうかと思うが、疲弊していても、思考が止まらないから仕方ない。

恋は盲目、よく聞く言葉だ。しかし、こんなにも友情も盲目なのか。オケの部員の白々しい付き合いはもちろん、留利絵が周りに対して抱く嫌悪感と、彼女が己の中で成長させていく支配欲を見て、しんどくなったというのが正直な感想だ。客観的に見れないと、自分が溺れる作品だった。

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