自分を疑う感覚
「製造人間は頭が固い」上遠野浩平/著 を読んだ。
初めて読む上遠野作品。「ブギーポップ」の名前は聞いていたものの、ライトノベルであるという認識しかなくて長年読んでいなかった。ハヤカワ文庫JA初登場、というだけで手に取るという、早川書房のいいカモになっている感がある。
簡単に感想……はブクログの方にまとめたのでこちらを参照。
※「こん」の名前で投稿しているのと、ネタバレも含むことにしています。
※この後の文章は基本的に「読後に私が考えたこと」ですが、引用があります。
キャラクターたちの語りに共感する部分
対話集、ということでやっぱりキャラクター。出てくるキャラクターのほとんどが異能者なので、各々自分の持つ能力自体、異能者であるがゆえの悩みなんかと戦っている様子。
私は異能者ではないので、そこらへんは共感できない。ね、仕方ない。
でもどのキャラクターにも、根底に「あきらめ」を共通して感じられるような気がした。わかりやすいのは、ウトセラ・ムビョウに「育てられている」コノハ・ヒノオ。自分を無能だ、守る意味が分からないとしている。
この「あきらめ」とか「無能感(無力とは違うような)」というところに、なんとなあく、共感を持った。ような気がする。
また、終盤に出てくる交換人間。ムビョウは交換人間に言う。
「その人間が自分で感じている<価値>を、そこに執着する精神のパワーを利用しているらしいな。(略)僕が自分を信じていない以上、お前は僕に対して、どうすることもできないんだ」
この部分も、そう。さっき感じた「あきらめ」の反対側に「価値」があるような気がした。
僕が自分を信じていない、価値を与えていないから。それは自分に対して諦めているのではないか。
身体と精神の分離 「私」は「自分」を疑う
この自分を信じない、価値を与えないということに、私は自分の体験を重ねる。
前提として、私は「脳≒精神≒心」であると、今のところおんなじものとして扱っている。(「心はどこにあるか?」と問われれば頭を指すし、「その精神や思想はどこから?」と問われれば、経験が情報として蓄積される脳を指すと思う。聞かれたことないからわからないけど。)
そして「脳≠私の中枢機関」だと思っている。
一方、私は自分の「身体」はハードウェアみたいなもんだと思っている。これについては、まだ考えがはっきりしない部分も多い。
日記というか、思ったことをTwitterや紙のノートに記録するのだけど、それを読み返しているとつくづく思うことがある。
自分、どこかで自分を俯瞰してみているな。と。
自分の何を俯瞰してみているかと言うと、身体の状態(体調とか怪我とか)、精神の状態だ。
わかりやすいのが、精神的に参っているとき。
身体は健康なはずなのに、精神的に参っていると頭が重くなり、手足も鈍くなる。血圧が低くて、ずっとぼうっとしている。耳鳴りがする。
そうすると私は「仕方ない精神だな」と諦めて、布団の中にもぐったり、目的もなく本を眺めたりする。私の精神をコントロールできない、と自覚し諦める。
身体が不調な時もそうだ。仕事が順調に進んでて、精神的にはポジティブ状態のはずなのに、突然風邪をひいたり偏頭痛を起こしたりする。
そうすると私は「そういう日もあるさ」と諦めて、身体が負担を感じないように行動する。もし私が精神的なもので偏頭痛をコントロールすることができれば、そんな風に思わないだろうな。結局鎮痛剤を飲むのだから(鎮痛剤を飲むことはコントロールなんだろうけど、完全に外部からの干渉だと思っている)。
身体もまた、私の精神でコントロールできない、ただ環境に反応しているだけ。と自覚し諦める。
①身体を俯瞰する精神と、②精神を俯瞰する身体。
あとは③精神と身体の総体を俯瞰する、自分らしき何者か。
(③のこれは、何なんだろう。自分のことなのに、自分じゃないような感覚がある。これは最近感じていること。)
結局、自分の身体も精神もコントロールできないわけだから、自分をなんとかしよう、と思うことが出来ない。根性論的な感じで「身体を動かせば気持ちも前向きになる」という考えに向かない。
これが、私が自分に感じる「疑い」と「あきらめ」。
自分に中枢機関なんてない、という「あきらめ」。
それが悪いっていうわけじゃない「価値観」
私が自分に対して感じる「あきらめ」や「疑い」をこうして文章にしようと思ったのは、上遠野さんのあとがきを読んだからだ。
「僕は優柔不断だ」に始まり、「人間だし。いいじゃん」で終わるあとがき。本編の対話とは異なり、最低限の改行でぎっしりとページ内で語る著者。
自分への疑いと不安と迷いとetcがここに詰まっているなと思った。そして。
我々にとって必要なのは、(略)、今、自分は迷っていると悟ることが出来る力なのではないか。
そう、書かれていたから。
「あきらめ」とか「疑い」って言葉を使うと、ネガティブな印象がある。でもそれが全部悪いって意味じゃなくて、そういう自分もあるんだわ、という自覚を表出したかった。
それが私の〈価値〉観なんだ、と自覚したかったから。
たぶん、私はこれからも「自分の感覚への疑い」とか「自分のことなのに自分じゃない感じ」を持ちながら生きていくんじゃないかと思う。
なんだかヒノオも、おんなじようなことを抱えていたんじゃないかと思って。ヒノオは、悟ったんだろうか。
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