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共感ってそんなに大切?「○○もしらないの?」と言ってくる人へ

noteのみなさん、こんにちは

今回は少し小説から離れて、最近思う「共感ってそんなに大切なの?」ということについて話していこうと思います。



認知度の高いアニメ、漫画。

そういうものは多くの人の共感の的になりやすいですよね。

集団生活では「同じ好み」は人との新しい繋がりを生むことのキーワードとしても知られています。

しかし、最近アニメや漫画のファンの方のテンションについていけず疲れを感じてしまっています。


好きなものがあるのは良いことだと思います。

好きなものを他人と共有できる喜びも分かります。

また、アニメや漫画・本といった作品に惹かれ、ハマっていく気持ちもよく分かります。

だから、アニメや漫画を好きな人を嫌悪する感情はありません。

では何に疲れているかというと、アニメや漫画好きの一部の人に見られるアニメや漫画の話題についていけない人に向かった冷たい目です。

例えばこういう会話があったとしましょう。

「〇〇ってさー、すっごい良くない?」

「分かるわー。それで▢▢も良かったよね」

「あ、アナタは誰が好き?」

「えっと……、知りません……」

この「知りません」の時に「あー、そういうの見ない人ね、話できない人ね」といった感情がもろだしの目が向けられることに疲れているのです。

最近は様々なサービスができ、アニメなどの作品に触れ合うことも多いかもしれません。

しかし、何を見るか、何に惹かれるか、そういうものは個人の感情でしょうし、見たくても見れない人もいるのにその反応はないのではないか、と思います。

まだ、冷たい目を向けて終わるだけならいいけれど、距離を置いてきたり、話が出来ない人という認識を持ってくるのは関係が悪化したり、人との繋がりに支障ができるので正直迷惑です。

そういった行為はつまり、話が分かる人と話が分からない人で境界線を引くということです。

話が分かる人が多数の場合、話が分からない人は端っこへ引っ込んでおけ、ということです。

そんな理不尽なことがあるだろうかと思います。

また流行りに敏感な人の中には

「○○○も知らないの?」

と言ったような感じのことを平気で言ってくる人もいます。

その「これは知ってて当然」「これを知らなきゃいけない」という暗黙のルール的なものを作らないでほしいです。

もちろん、純粋にその作品が好きで、分からなくとも快く分かるように話をしてくれる人もいます。

「アニメ、漫画好きの人すべてが嫌な人」では決してありません。

しかし一部の人でも、分からない人に差別に近いものを向けるのはやめてほしいと思います。

近年、技術も発達し、数えきれないほどの作品が生み出されています。

そして、数えきれない人生の楽しみ方も生まれています。

だから、一つに絞るのではなくて、

「分からないなら分かるように話せばいいよね」

「違ったって、分かり合えないとは限らないよね」

「これが好きでもいいよね」

「そういう楽しみ方もあるよね」

「好み押し付けたり、話が出来ない人と決めつける必要ないよね」

と、多くの感じ方、考え方を受け入れてほしいと思います。

人間は「孤独」という厄介な感情を持っています。

だから「共感」を求め、「共感」に弱い。

しかし、「共感」だけがすべてではないし、「共感」に流されるだけの好みならそれは本当の好き、とは言えないのではないかと思います。

「違い」を壁としない人が増えて欲しいし、「違っていたから」傷つく人がいないで欲しいと思います。


(これは、本当に一部の人の話です。アニメや漫画が好きな人、全てがそういった行為をしてくる人だと思い、偏見を持つのはやめてください)





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