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「3回は待ってくれ」(1)

「実はご主人の検査結果があまり良くなくて、この数値だと人工授精を行っても妊娠はおそらく難しいと思うので……早めに高度不妊治療、できれば顕微授精に移行することをおすすめします」

主治医にそう告げられたのは2019年の春。通院を始めてから、まもなく4ヶ月が経とうとしていた時期である。
想像もしていなかった言葉を受け取ったはずなのに、今振り返るとその瞬間の私は、あまりにも淡々と話の続きを聞いていた。
いや、聞いていたというより「聞けていた」の方が、本当は相応しい表現なのかもしれない。

なぜなら大学在学中に付き合いが始まった私たちは、それから20代、30代と人生を共有する中で、幸いこれまで互いに大きな既往症がなかったこと、そして双方の近しい家族が皆、子どもを順調に授かっていることを知っている。
「あぁ自分も見てきた通りに、きっと周りがそうであった通りに、子どもを授かって人の親になっていくのだろう」
いつからかそう深く信じ込んでいた感覚と医師の診断、ましてや高度不妊治療の言葉は、その頃の私にとっては「まさか」という言葉も嘘くさく感じるほど、あまりにも距離があった。

それに、まだ一回だけの検査結果だったのである。
この時点では主治医からも高度不妊治療へのステップアップの他に、「まず人工授精をやりつつ、その間に男性側の検査をもう少し進めてみる」というもうひとつの選択肢も当然提案されていた。
だからこそ状況や心情的にも、当時の私は迷わず後者を選ぶ。


「人工授精」は以前にも少し触れた通り、婦人科の一般的な内診台でもできる、いわゆる「一般不妊治療」に該当する治療法である。
人工、という響きが未経験者にとってはどこか不気味で、つい耳を遠ざけたくなってしまいがちなのだが、実は事前準備(基礎体温や専用検査薬による排卵日の予測)や処置後の精子や卵子の動きは、自然妊娠の過程とほぼ変わらない。

「人工授精(AIH)は受精の場である卵管膨大部に受精に必要十分な精子を届けるため子宮腔内に精子を注入する治療法です」

『Q10.人工授精とはどういう治療ですか?』日本生殖医学会
http://www.jsrm.or.jp/public/funinsho_qa10.html

「人工授精では2~3mlの精液中の精子を洗浄抽出し、0.5ml程度の量にまで濃縮します。それを排卵前日もしくは排卵日に子宮内腔に注入することにより精子の卵管への到達数を高めることを目的としています。
精子は自力で卵管膨大部へ達し、自然と同じ状況で受精をします」

『人工授精』城南レディスクリニック品川
https://www.johnan-clinic-s.com/medical/7.html

つまり人工授精の場合、”人工”らしい部分は「精子の洗浄・濃縮」とせいぜい「子宮頚管(受精に至るまでの精子側の第一関門)の突破補助」くらいなのである。
だが男性側の精子の数が若干少ない、あるいは動きが若干鈍かったり(軽度の乏精子症&精子無力症)、女性側の子宮頚管に若干の問題があって精子が通りにくい(精子頸管粘液不適合)、または男女どちらかに性交の困難な事情がある(性機能障害)などのようなケースであれば、このアシストが非常に大きい意味を持つ。

東京の不妊治療専門病院・はらメディカルクリニックが公開している妊娠実績データ(2021年版)によると、同クリニックで妊娠にいたったケースの人工授精・処置回数は平均4.3回となっている。
その上で、同クリニックのホームページ上には「人工授精で妊娠される方の約90%は4~6回目までに成功」との一文もあり、これは日本生殖医学会の見解ともほぼ一致する。
そして私自身も、人工授精の妊娠率については主治医から同じような説明を受けた。
つまり、次のようなことである。

「AIH(人工授精)での妊娠率は施行回数6回程度で頭打ちとなります」

『Q10.人工授精とはどういう治療ですか?』日本生殖医学会http://www.jsrm.or.jp/public/funinsho_qa10.html


2019年5月。
1回目の人工授精を行った頃の私は、前日も変わりなく雑誌の原稿を書いていたし、当日は病院での処置が終わった後、記録を見るとそのまままっすぐ取材先に向かっていたらしい。
生理周期や実際の排卵に障害がない私の場合だと、人工授精であれば計2日程度の通院(排卵日の予測検査と実際の処置日)だけで済み、副作用の出やすい排卵誘発剤も飲む必要はなかった。
なのでスケジュールの都合さえつけられれば、私はライターとしての日常、子どもの頃からずっと夢に見ていて、30代でやっと叶えた自分の姿に、まだすんなりと戻ることができている。

だが約2週間後、基礎体温が下がっていくと、想像もしていなかった現実と不安は、私の描いていた未来を少しずつ浸食していく。
そして生理が来た日も、私は変わらず仕事の打ち合わせに向かう。
「今の私にはただ泣かずに生きていくことだけが、精一杯の努力だ」
手帳にはそう書いていても、きっと家の玄関を出た時にはもう、平気な顔をしていた。


参考文献
・『人工授精:人工授精の適応』おおのたウィメンズクリニック
https://www.ont-womens.com/artificial_insemination/
・『人工授精(AIH)』西山産婦人科 不妊治療センター
https://www.nycl.jp/ippan/ippan_sub04/
・『人工授精(AIH)│治療スケジュールや妊娠確率、費用などについて詳しく紹介』はらメディカルクリニック
https://www.haramedical.or.jp/content/artificial/000086-2
・『妊娠実績2021年』はらメディカルクリニック
https://www.haramedical.or.jp/introduction/results/y2021

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※2023.4 いったん更新休止中 (再開までは有料マガジン購読者の方にのみ、ときたま近況報告あり) 基本は支障ない限り(有料ラインを記事の終わりまで下げる)実質的無料noteとして運用予定です。必要時に一部カギをかけられるようにとの考えから、一応有料マガジン(記事のセット販売)に設定しています。

「それは可哀想でも、前向きでひたむきなわけでもない。だがどこかで必ずすれ違っている、日常の一片である」

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