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「元」役者の肩書きが決定したとき

プロダクションを退社してからの日々を書きます。
退社後も鼻息ばかり荒く役者を目指していました。
まだまだ夢追い人で、現実的な感覚を持っていませんでした。

そんな中、青年座研究所の同期だったYから誘いを受けて、Yの彼女が主催する舞台に参加することになりました。
先に言ってしまいますが、これがとんでもなく酷い舞台でした。
彼女オリジナルの脚本でしたが、全然脚本が出来上がってこないまま、時間ばかりが流れて行くのです。
取り掛かりは早かったのに、脚本が完成するまでどれほど待ったか。
そして、果たしてこの脚本は完成しているの?という疑いしかない物語でした。
稽古場所を取っては発声や体づくりをするも、肝心の芝居が出来ないのです。
やや情緒不安定だった彼女ということもありますが、とんでもない舞台に参加しまったと何度も後悔しました。
結果、公演までは行き着くことができました。
だけど笑っちゃうほど酷い有様です。
お客さんの入りよ!
知り合い数名を呼べただけで、全3回全てガラ空き。
最終公演なんて3人もいなかったんじゃないかな。

と、文句ばかり言っていますが、私はこのとき初めて、舞台の大変さを身をもって知ったのです。
演劇をするには場所や費用が必要ということ。
何より、お客様がいるからこそ成立するものだということ。
いずれも当たり前なのに、割と大きな劇団青年座の傘下だったことで、そんなことも実感できていなかったのです。
研究生の頃は、劇団側が全てを用意してくれていたのです。
例えば稽古場所については、体育館や貸ホールや貸事務所が必要です。
それを予約することから始まり、費用も発生します。
小道具や大道具だって必要になってきます。
新品を買うわけにはいかないのでリサイクルショップを巡り、さらに公演が終わったらその処分をどうするかも考えなければなりません。
そして、一番はお客様がいるのか?お金を払ってまで観てもらえるのか?
少なくとも私は彼女が主催する公演に自信を持って人を呼ぶことはできませんでした。
とても観せることはできない舞台でした。
とか言って彼女のせいばかりにしている私…。

ここが分水嶺になりました。
この公演を通じて、私は「舞台をする」ということを諦めました。
初めて、素人ながらに舞台に取り組んでみて、何もかも費やすこと、金も、時間も、全てを投じて「舞台をする」ことは出来ないと自覚しました。
まさに「元」役者の肩書きが決定したときです。

中小劇団と一括りにしたらめちゃくちゃ失礼ですが、言葉としてだけなのでどうかお許し下さい。
私は、中小劇団が活動を続けることが、どれ程の苦労の上に成り立っているかを知りました。
少しですが演芸の道に足を踏み入れ、舞台にも立たせてもらいました。
演ずる側、観る側の両方を知りました。
残念ながら私は演じる方は諦めるしかありませんでした。
ひとえにパワー不足。
中小劇団の方には、何を甘いことを…と笑われることでしょうが、甘受するしかありません。
なんちゃって役者ではありましたが、十二分に夢をみせてもらいましたので、ここで退場することは致し方ありません。

今後は観る方に専念しましょうか。
観る方にはいまだ興味が尽きません。
それも中小劇団、大学の演劇部なんていうのが魅力的でたまりません。
大きな劇団(例えば劇団四季や宝塚歌劇団)は確かに素晴らしいのでしょう。
けれど私が求めているのは大衆的で、身近にあって、もっと砕けて言うと素人臭さが残っている、そんなものを観たいのです。
だから、中小劇団のみなさま、これからも活躍を祈念しております(って、何かの挨拶かーい)。

これにて一通り役者志望時の物語はおしまいです。

後日談としては、下記が続きになるでしょうか。

また、役者時代の外伝としては以下のようなものもあります。

今後も役者時代?のことで思い出したことや、書き切れなかったことを記事にしていくことにします。

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