出会いの機会を増やせたのなら
たまにふと怖くなることがある。
「これは本当にわたしの感想なのか?」と。
noteでは主にコンテンツについて書いている。
読んだ本・漫画、観た映画・ドラマ・アニメ、行ったライブ・展示・舞台。
書く理由は、忘れっぽい自分のため。
そのコンテンツに触れて何を思ったのか、どういうところに惹かれたのか。未来のわたしが読んだときに「そうだ、こういう作品だった」「こういうところが好きだった」と思い出すために。
自分のために書くなら非公開だって良いはずだ。
公開しているのにはもうひとつ、理由がある。
おこがましいかもしれないけれど、出会いの機会を増やせたらと思いながら「公開」ボタンを押している。
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前に某SF映画を観た時のこと。
事故に遭った家族の意識を取り出して主人公が精巧なクローンを作り上げてしまう、そんな話だった。
観終わった後のわたしは確かに「面白かった」と感じていた、はずだった。
「この映画には倫理観が欠如している」と書かれた数々のレビューを見た後、わたしは素直に「面白かった」と書けなくなってしまった。
バカみたいだなあと思いつつも、この映画を面白いと思った自分自身に倫理観が欠如しているように感じられてしまったのだ。
ブンブンと頭を振ってみても見たレビューが頭から離れない。言われてみれば確かに倫理観が…って、違うでしょ。観終わった直後のわたしはそのシーンどう解釈したんだっけ?
だめだ、思い出せない。
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指1本であらゆるレビューに触れることが出来る。
作品をより深く理解できるレビューもあれば、愛に溢れた共感しかないレビューもある。むしろ作品そのものよりも面白さを感じてしまうような、そんなレビューだってある。
一方で先日放送していたドラマ『美食探偵』では、ひとつの口コミによって予約客が2組キャンセルしていた。
この予約客はそのお店で食べずにキャンセルを判断した。自分の体験ではなく、他人の体験によって判断されたキャンセルだ。
低評価のレビューが悪いとは思わない。
実際にわたしもそれを見て判断することはある。
それでも自分がnoteに書くときは、読んでくださった方とコンテンツとの出会いの機会を減らしたくない。
もちろん嘘は一度も書いていない。
好きだから、面白かったから、興味深かったから、知って貰いたいから、書いている。
そうして書いたものが、公開直後じゃなくても良いからいつかの誰かの出会いのきっかけになったら良いなあと思う。面白そうとか、観てみようとか、読んでみようとか、聴いてみようとか、体験の機会になれたらなあ、なんて。
どんな作品だって好きなひともいれば合わないひともいる。
合わなかったひとたちの感想ばかりが目に入ってきて自分の感想を見失ってしまったときに「あ、このひとは好きだって書いているなあ」ってホッと出来るような、そんなnoteをこれからも書いていきたい。
noteは、クリエイターが表現活動を行うためのプラットフォーム。
わたしはクリエイターとは程遠いけれど「何をクリエイトしているの?」と聞かれたときに「コンテンツとの出会いの機会」だと答えられるようになっていきたいなと思う。
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