続・山椒魚

山椒魚は泳いだ。
彼の棲家である岩屋は彼にはもったいないほど広々としていた。そして、殺風景だった。彼は毎日長い時間をかけて岩屋のなかを悠々とまわった。常に水の流れがあるため、苔が生える隙もなかった。
なぜ彼はそんなことをしていたのかと問われれば、答えは簡単かつ明瞭だ。それくらいしかやることがなかったからである。



或る夜、一匹の黒くて小さくて丸いものが岩屋のなかへまぎれ込んだ。この黒くて小さくて丸いものは今や成長のまっただなかにあるらしく、丸い体におまけのような足が付いていた。彼は初めてこの黒くて小さくて丸いものを見た。

「君、いつもひとりだろう?」

真っ黒な中にぎょろりと真っ白な目玉が見えた。

「ひとり?」
「そう、ひとり。ぼくもひとり」

初めて聞く言葉だった。彼はどうしようもない寂しさを覚えた。

「そうか、ひとりか。ひとりはいやだな」
「うん。だからふたりでいよう」

これもまた初めて出会う言葉だった。彼は全身がむず痒くなるような気がした。

「ふたりは、いい響きだな」



その日から毎日一緒に過ごした。
彼は黒くて小さくて丸いものから様々なことを教わった。銭苔の繁殖方法や、杉苔の花が可憐だということ。それだけではなく、目高の群の習性や産卵期の子蝦についても。ふたりは"ともだち"だということも。

彼は岩屋のなかで、そとの情報をどんどん吸収していった。彼に知識が増えるのと比例して、初めてのともだちの体はどんどん変化した。最初に岩屋にやってきたときと同じ黒くて小さくて丸いものだとは思えなくなっていた。
そして彼もまたどんどん体が大きくなった。彼らがいる岩屋が、形を変えて小さくなっていくようにも見えた。

 



山椒魚は羨んだ。
ともだちがくるまでの間、彼は岩屋の外を眺めて過ごした。目線の先には一匹の蛙がいた。蛙は水底から水面にむかって勢いよく律をつくって突進したが、その三角形の鼻先を空中に現すと水底にむかって再び突進したのである。

「あんなことをして一体なにが楽しいというのだろう」

はじめ、彼は自由に泳ぎ回る蛙を羨ましいと感じた。しかし、次第に羨む気持ちが強くなりすぎてしまった。我々人間と同じく、憧れは時々嫉妬に変化してしまうのだ。

「あいつは、莫迦だよ」
「きみはどうして莫迦だと思ったんだ?」

ふと横を見ると、中途半端な色で中くらいの大きさで奇妙な形のともだちがいた。

「どうして莫迦だと思ったんだ?」

ともだちは同じことばを繰り返した。嵐の前の静けさのような奇妙な空気が岩屋のなかを埋め尽くした。

「あいつは莫迦だよ、見ているのも嫌になるんだ」
「なにが嫌なんだ、蛙が嫌いなのか」
「蛙が嫌いか、そうなのかもしれないな」

白い目玉がぎょろりと動いた。ぐるぐるぐるぐる回ったあと、目玉はじっと彼を見つめた。


「ならば、ぼくはまたひとりだ。悪いが、君もまたひとりだな」

 



あれから何年もの月日が過ぎ、彼は蛙を避けた。ひとりになった原因は蛙にある。そう思わなければ自分が壊れてしまいそうだったのである。これも人間はよくやることだ。しかし、後に自分が苦しくなるということを分かっていてもなぜかやってしまうものである。なんと愚かなことであろうか。

いつの間にか棲家である岩屋から彼は出られなくなっていた。そんなことにも気が付かないほど何年もひとりだった。いや、ここ二年程はふたり、だったか。


岩屋に閉じ込めた蛙は空腹で動けないらしい。もう駄目なようだと答えた蛙は、体が細くなった分、大きな目玉がぎょろりと強調されていた。その目は彼に最初で最後のともだちを思い出させた。

「お前は今どういうことを考えているようなのだろうか?」

相手は極めて遠慮がちに答えた。

「今でもべつにお前のことをおこってはいないんだ」

彼は考えた。岩屋に閉じ込めたことか。
それとも、

「俺はお前とふたりで過ごした時間がいまでも一番たのしかったと思っている。ひとりにさせて悪かったよ」




山椒魚は分かっていた。
黒くて小さくて丸いものがオタマジャクシという生き物であること。オタマジャクシは成長すると蛙になるのだということも。自分の発言でふたりがひとりになってしまったということも。気づいた時にはもう遅かったということも。彼は分かっていた。分かっていたからこそどうしようもなく哀れな気持ちに陥った。


「本当に、もう駄目なようか?」
「しつこいな、何度も言わせるな」



山椒魚は悲しんだ。
彼は彼の棲家である岩屋から、たったひとりのともだちでさえ救ってやれないのである。岩屋のなかは、いつもよりほの暗く、温かかった。

彼はかつてのともだちが弱っていく様をただただ見ていた。それは今までで一番辛いことだったが、最期はふたりでいようと心に決めていた。

「なあ、お前は俺に対してどう思っている?」

蛙はあの時と同じ白い目玉をぎょろっと動かした。ぐるぐるぐるぐる回ったあと、目玉はじっと彼を見つめた。目玉をじっと見据え、彼は答えた。


「今でも俺はお前に感謝しているんだ」






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お分かりかと思いますが、井伏鱒二「山椒魚」の続編を自分で書くとしたらどう書くか、というテーマで書いたもの。
嶋津亮太さん主催「教養のエチュード賞」応募作品。


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