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ぱびりおんさん

10月23日(土)14時開演
SCRAMBLE EXPO 2021
ぱびりおんさん
作:佃典彦
万博設計/劇団清水企画
会場:扇谷記念スタジオ シアターZOO

概要

名古屋の劇作家の佃典彦さん(劇団B級遊撃隊)が書き下ろした新作戯曲を、大阪の万博設計と札幌の劇団清水企画が、異なる演出と出演者で連続上演する、贅沢な企画でした。
10月初旬に大阪で上演され、同月下旬に、札幌にて。
約60分の上演で、途中に美術転換を含めた休憩が10分。全部で2時間くらいでしたが、思っていたよりも、あっという間だったなあという記憶があります。

変てこ

この数日、起きた瞬間から眠りにつくまで、軽い目眩がずっとしていた。ほぼ確実に、不安定な気圧のせい。
この日も、カーテンを開けたときに土砂降りだったと思えば、朝ご飯を食べ終わるころにはピーカン晴れだった。
だるい身体を引きずり、母に励まされながら支度をする。ライダース・ジャケットを羽織り、サングラスをかけ、タクシーで劇場に向かった。と書くと何だか格好のついた感じがするけれど、マスクをしているので結構不審な見た目である。

檻のマトリョーシカ

2団体を観終わって思ったのは、この戯曲には幾重にも入れ子構造が仕掛けられているということ。

まずは、檻。ぱびりおんさんが実際に「入っている」檻だけでなく、母も、娘も、そしてぱびりおんさんもまた、見えない檻に閉じ込められているように見えた。その檻に名前を付けるのなら、「年齢」「貧困」「家系・血縁」「宿命」「世間体」「ジェンダー」「自己否認」などだろうか。この様々な見えない檻が、その存在を主張したり、逆に閉じ込められた彼らが、ひょいと檻から出てきたりする。自分自身を、そして相手を、新たな檻に入れたりもする。
一番印象的で、悲しくて興味深かったのは、檻の中に自ら留まることで、檻や檻の中にいることを証明することを選んでいたこと。そしてそのことを「照らし出してくれる」装置として、万博が機能していたこと。

次に、「見る/見られる」の関係。檻に入れられている存在は、見られる方が圧倒的に多いと思う。しかし、この戯曲の場合、全員が檻に入れられている。この上演中、彼らは互いを見合っている。見合い、「檻の掛け合い」をする。万博に寄せて言うと、彼らは展示物であり、同時に出品者・興行主でもある。
そして、その捻じれた「見る/見られる」の関係を、私たち観客がまた、「見ている」。彼らの世界はまるでパビリオンのように、劇場という一つの建物の中に押し込められ、展示され、こぼれ落ちたものは、観客の好き勝手な想像でしか補完されない。
加えて複雑なのは、安全なところから観ているように感じている我々観客もまた、「檻に閉じ込められていないとは言えない」ということだ。

実際に、博覧会では、アイヌや朝鮮、台湾や琉球の人々など、「占領された側の人間」を、「占領した側の人間」が「展示」していた時代があった。
この戯曲が、大阪と北海道という土地の劇団によって、その二つの場所で上演されたこと。もうすぐ日本で万博が開催されること。ついこの前までオリンピック・パラリンピックが日本で開催されていたこと。ウポポイに「民族共生象徴空間」という名前がついていること。
まだまだ考えたいことは、山積みである。
最後に、『博覧会の政治学』(吉見俊哉・1992年・中公新書)より、1889年のパリ万博で、会場内に「再現」されたセネガル人集落についての記述を引用する。

展示された人々は、最初の一ヵ月が過ぎた頃には、博覧会の観客たちが自分たちにどのようなふるまいを望んでいるかを察知し、それにあわせた「演技」を身につけていったようである。(P186)

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