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【改稿版】PROJECT WALTZ VOL.2

2021年2月26日(金)19時開演
BLOCH PRESENTS 2021 「PROJECT WALTS VOL.2」
~栄光の3人芝居フェス

(先日一度公開しましたが、稚拙な文章が散見されたので、推敲し、
再度投稿しました。以前の劇評を読んでくださった方、申し訳ありません)

概要

3つの若手団体(おそらく私と同世代)が、①20分の短編作品②出演者3名 というルールの中で上演するという企画。ちなみにBLOCHというのは、札幌の中心部にあるキャパシティ90名ほどの非常に素敵な小劇場で、その規模から、若手団体に多く利用されています。
3つの団体の上演の合間には司会者が2名出てきて、団体の紹介などをしていました(これが舞台美術入れ替えや換気休憩のための時間にもなっています)。

あの日は札幌市民もおののく吹雪だった

私は冬の風が大嫌い。そこに雪も混じってしまった。
自宅から劇場までの丁度良い交通機関はなく、歩くしかない。途中地下通路は通るものの、最後はうすら白い世界を彷徨う。知り合いと一緒に向かっていなかったら確実に遭難していた。
ようやく劇場に辿り着いて席に座る。いつかオランダで飲んだラム酒入りのホットチョコレート(シナモンビスケット付き)を思い出していた。飲みたい。或いは芋焼酎お湯割り梅干し入り。飲みたい。
そんな状態から、観始めた。

Act 01 Compagnie Bell mèmoire 「heavy chain」

①よかったところ
俳優の身体性には目を引くものがあった。この3人の俳優だからこそ可能になった演出もあるだろう。曲が止まるのに合わせてダンスから瞬時に元の状態(芝居の続き)へ移行するところなどぴったりで、気持ちが良かった。
強いて言えば、黒子のような恰好をした影のような人物の動きが、他の登場人物の意識の方向や「嫌いと口では言うけど心はウラハラ」的表現に留まっていたことが惜しいと感じた。言語がメインモチーフとなっているなら、その言葉のイメージや歴史、纏うノイズまで膨らませた身体表現も観てみたい。

②2つの暴力-言葉と権力構造

冒頭の場面で印象的に発せられた、「人間がつくりだしたもので一番卑劣なものは言葉だ」という台詞がこの作品に通底するモチーフとなっている。
脚本の山口さんは、卑劣だと主張する言葉をもってして、どうして「『人間が発語し人間に見せるという行為』を前提とする言葉」を書いたのだろう。もしも言葉が卑劣であるなら、舞台上で発語される”卑劣”な言葉は、登場人物同士だけでなく、観客にも向けられると私は考える。”卑劣な”言葉を使ってしかその”卑劣さ”を伝えられない、この虚しいパラドックスについて、再演するならもっと”語って”ほしい。
もう一つ気になったのは、撮影者から被写体への要求も権力ないしは暴力と見えたことだ。彼らは互いを恋愛対象として見ている。撮影者(以下、A)はそれを自覚し受容しているが、被写体(以下、B)はまだそれを自覚しながらも受け入れられていない。ここで重要なのは、AとBは双方女性であり、Bは自らが同性愛者であるのかというアイデンティティの揺れの只中にいることだ。徐々に性的にも思えるポーズを要求するAに対し、あからさまに拒否の態度を示すB。しかし、「個展があるから」「作品だから」という実際的理由と、私欲を満たしたいという理由が、Aの中で混在し見分けがつかなくなり、Bの揺れや困惑をさらに増大させ、結果としてBを傷つけているように見えた。
暴力的な言葉と行動。どちらも個々の関係性において「暴力的かどうか」が決まる、マニュアルのないものであるからこそ、演劇という表現形式で描くのに適しているのではないだろうか。

Act 02 グループ俺達「第52回全日本お兄さんGP」

①よかったところ
少々変な言い回しではあるが、俳優たち全員がこの作品を面白いと信じている、ということを観ている私が信じられた。
これは皮肉でもバカにしているのでもない。複数人が集まって舞台芸術を創作し上演する際に、最も大切なことだと私は思っている。
複数人が集まれば感性も思想も異なり、時として誰かの陰口を叩いたり、脚本を責めたり…などは「あるある」の光景だ。
しかしこの団体は全員で、作品にとっての善へ向かっていこうとする創作過程を経たように思えたのだ。

②人を笑わせること―ルッキズムとバックボーン
劇中には、「それほど美人でない◯◯」等といった台詞が節々に聞こえた。何故女性を(他者を)形容するときに、見た目の美しさの度合いを使用しなければならないのだろう。この作品は、「かっこいいお兄さん」を決めるグランプリではないので、尚のこと引っかかってしまった。
また、「ツッコミのお兄さん」が字義通りツッコミ役を担うのだが、その人物が「福島弁で話す」と紹介されていて、違和感を感じてしまった。その役を演じていた俳優が実際に福島県出身なのかもしれないが、どうにも「訛っている人(地方出身者)は田舎者であるのにツッコミだ」という笑いが書き込まれているように思えて(ここはただの紹介だったのかもしれないが)、モヤモヤしてしまった。
加えて、「福島県であること」も、丁度10年前に起きたことを思い出し、モヤモヤは一層増してしまった。
ひとりもモヤモヤさせない表現は不可能であると私は思っている。表現する以上、誰かをモヤモヤさせる可能性はある。それに、舞台上では「正しいこと」しか言ってはいけないというルールはない。価値判断の基準は無限にあり、それらを受け入れるのが劇場という場所のひとつの役割だと、私は考えている。
ただ、どういう態度で表現し、それが観客にどう受け取られるのかは慎重に考えなけらばならないと、私も気を引き締めた。

Act 03 ポケット企画「歴るロウ轟き魔女でんでん」

①よかったところ
舞台美術へのこだわりを感じた。必要最小限でありながら、魔女の生活を想起させ、作品世界の強度を高める美術であった。小劇場の限られた舞台空間をさらに家の外/内と区切ったことがよかったと思う。少年が魔女の家に入り、ドアを閉める=異世界に足を踏み入れる、という構造が視覚化されたことで、魔女というファンタジックな存在を担保し、観客がその作品世界を受け入れる助けとなった。但し、このフェスティバルを通して舞台背面に吊るされていたドレープ状の幕(私の思う外の空間)も魔女の部屋として扱っていたため、これはミスリードの可能性が高い。

②タイトルについて
まず、意味が朧げな言葉を調べてみる。

へる【経る/歴る】
  1.時日が過ぎる。
  2.その場所を通る。通過する。経由する。
  3.ある定まった過程・道筋を通る。

るろう【流浪】
  住むところを定めず、さまよい歩くこと。

とどろき【轟き】
  とどろくこと。また、その音。
とどろく【轟く】
  1.音が響きわたる。鳴り響く。
  2.世間に広く知れわたる。有名になる。
  3.期待や興奮などで胸がどきどきする。鼓動がはげしくなる。
(goo 辞書より 3月4日閲覧)

また、「へる」という音からは減るも連想され、「ロウ」からは、蠟(ロウソク)と老(老いる、老人)が連想される。
時を経るにつれて減っていく蝋燭から命・寿命を想起させられるが、溶けたロウはいずれ冷え固まる。命が足もとに冷え固まるから老人の重心は下がり、腰が曲がる。ロウは消えるわけではないので経験や知恵として蓄積されていく一方、それが枷となり新たな知見を受け入れずらいという面もある。魔女はその固まったロウを再びすくい、新たな蠟燭をつくっているのだろうか。
それに対して少年は若いので、定まった過程は無い=人生において流浪の身とも言えるだろう。しかし、自分にとって大切なものは探しに行き、魔女の家にも辿り着いている(経由)。歴りつつ流浪であるこの状態を、脚本の三瓶さんは「へるろう」という造語で表現したのかもしれない。
雷が空に鳴り響くという大きな轟きと、魔女の狼狽や期待で心臓がばくばくする小さな轟きの繋がりは、作品内で明確に提示されていた。
登場する3役それぞれについて、タイトルの語を引用して述べてみたが、いずれも「裏表」というモチーフが通底しており、でんでん太鼓とオーバーラップする。表が裏に、裏が表に。魔女はかの有名な「きれいはきたない、きたないはきれい」という台詞を呟く。どちらが良い悪いではない、白黒つけてしまう方が何かを制限してしまうのかもしれない。引き続くこの混乱の中で、このどっちつかずさを語ることが、渦中での誠意のある答えなのかもしれない。

③言葉と身体と熱量
臍(へそ)は、失くすまで在ることを意識しなかったもの、失ってから存在を意識したものであると少年は言う。このパンデミック下で、我々は気づかぬうちに何を失ったのか。モチーフは現在や社会を意識しながらも、言葉はどこか不思議な音楽的要素を持っており、何が対話されているかということだけでなく、言葉自体が持つリズムも同時に聴くことができた。そのテクストを発語する身体も、その独特な文体に説得力を持たせるものだった。
一方、俳優の熱量が冒頭から最大だったことは気になった。最初から上がりきった熱量は、それ以上あがることができず、故にのっぺりしてしまった印象で勿体ない。加えて、台詞間の微小な空白の時間によってリズムが加速すべきところが妨げられていたように聞こえたのも「のっぺり」の一因かもしれない。20分間という短い時間の中で熱量やスピードの振幅に幅が出ると、より言葉や身体の魅力も際立つと思った。

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