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2020年のマーチ

第15回春季全国高等学校演劇研究大会(春フェス)
2020年のマーチ
作:岩手県立千厩高等学校 演劇部
劇作指導:小堀 陽平
会場:北九州芸術劇場

前置き

私は2020年2月に、岩手県西和賀町銀河ホールで行われた雪の演劇祭に参加しました。
その企画と運営を担うギンガク実行委員会の皆さまには現在もありがたいことにお世話になっていて、通年の戯曲勉強会をはじめとするオンラインでの企画に参加しています。
今回、『2020年のマーチ』が映像配信されていることを小堀さんから教えてもらい、戯曲のデータも頂きました。
なので、これから書く文章は、後日行われた映像配信を観て、その後に戯曲を読んだ上で書いているということを、ここに述べておきます。
おそらく5月末頃には見れなくなってしまう期間限定のものですが、映像配信のURLも載せておきます。千厩高校は、「上演2」となっています。
https://www.openrec.tv/movie/nqr6wdkjl86

名前も顔も分からない

コロナが流行してから(特に日本中が本格的にヤバい!となり始めたのは、本作の時期・3月後半辺りからだったろうか)、私の生活の中に占める割合の中で、インターネット(特にSNS)での世界が、現実/日常の割合よりも、大きくなったように感じている。
これは私的な感覚だが、一方で、Twitterデモが行われるなど、変化した生活においてネット上に場所を求めている人は多いのかな、とも思う。
「ステイホーム」や「自粛要請」で、「おうち時間」が増えた時、誰かと会い外出する代わりに、ネットの世界に出掛けて、他者が何をし、どんなことを考えているのかを知りたかったのかもしれない。
理由はそれだけなのに、例えばコロナの影響でアーティストが活動を続けるのが難しくなった時、有名な演劇関係者が声をあげると、大勢の人からネット上で叩かれた。「芸術なんて生活に必要ない」「好きなことやってるんだから勝手にやってればいいじゃん」
今まで演劇をやってきて、演劇が好きだったり演劇活動を肯定してくれたりする人ばかりと(幸いにも)関わっていた私には、衝撃だった。今まで存在に気がつかなかった、名前も顔も分からない敵が、実は日本中に大勢いたことを知ってしまった、というような感覚だった。

本作では「ポストに誹謗中傷を書いた紙を投函した人」「珠希にクソリプを送る人」という登場人物にすら名前も顔も分からない敵と、「田中さん」「ドラッグストアの店長」「米沢さん」という観客には名前と顔が分からない敵が出てくる。おそらくコロナが流行しなければ、彼らは登場人物たちの敵にならなかった。関わりさえ持たなかった人もいるだろう。
大学生が卒業旅行で海外に行ったことを、マスコミも国会議員も普通に暮らしている人たちも、それぞれの場所から一人の大学生に対して非難を浴びせた。
この実際に起こったことを、誰が・どの意見が正解なのかを主張するのではなく、事実起こったこととして様々な人の視点から描いている点が、とても誠実な姿勢だと思った。先述したように、観客にとって名前も顔もわからない敵が2種類いるのも、更に興味深く、想像を促される仕掛けだ。
誰のものかわからない言葉が生活に侵食してきて、一緒に暮している人達の関係性まで変化させてしまうという、まさに今だからこそ、より強く観客に迫ってくる作品だ。

ネコとハムスター

このことを特に感じたのは、ジェリーという名のハムスターが失踪した後、ムトと名付けた見知った野良猫に血がついていることがわかり、明言はされないが、食べてしまったのではないかと観客に想起させる場面だ。
余談だが、私は小さい頃『トムとジェリー』が大好きで、よく見ていた。「トムとジェリー 仲良く喧嘩しな」という日本語のテーマソングも、よく覚えている。
トムとジェリーは、今考えるとかなりえげつない喧嘩をしているが、それでも時には助け合うし、喧嘩に本当の勝ち負けがないから話はずっと続いていくし、ジェリーは絶対に死なない。この関係性が、コロナ前の私たちだったのかもしれない。
しかし今、トムはムトになってしまった。自分の欲求や生きるために必要なことの為なら、ジェリーを食べてしまう。
今までは愛らしく、生々しい「生」や「欲望」を感じさせないキャラクター(=ツイッター上で見かける本名も知らないアカウントや有名な政治家や顔見知りのご近所さん)だったトムは、野生の獣(=生きるためなら手段を選ばない、何かを攻撃し犠牲にしても自分が生き残る道を選ぶ)のムトになった。
ムトとジェリーは、仲良く喧嘩などできない、強いものが大切なものを守るためなら弱いものを見捨て、犠牲にし、もしかしたら本当に殺してしまう。今の日本は、そんな世の中になっているのだと、改めて恐ろしくもあり、同時に、私がムトなのかもしれないと、これまた恐ろしい問いを投げかけられた。コロナが収束しても、きっとずっと考え続けていくだろう。

翳りゆく部屋

それにしても、どうして日本中にムトが大発生してしまったのだろうか。
もちろん、今までも皆トムでありムトである、状況に応じてトムになったりムトになったりして生きてきたのだと思う。
でも何だか、コロナが流行してから「私の周辺の一部の人以外みんなムト」のように、私は感じてしまう。
それは何故なのか、現時点での答えを書いてみる。

先ほどムトについて、「強いものが大切なものを守るためなら~」と書いた。コロナが原因で大切な人や仕事やものを失ってしまった人は多くいる。しかし同時に、今皆が抱えている「大切なものを失う恐怖」が意味する大切なものの中には、「仲のよい漫画家やファンと交流できるコミケという場」や「映画館」、「ライブ」、「カラオケ」、「劇場」、「学校帰りに友達と溜まる行きつけのファミレス」、「不倫/浮気相手」といったような、他の人にとっては「無くても生きていける」ものが含まれているのではないか。
これらはすべて、「文化的活動/行為」と呼べると思う。
本作では、あんが由乃に「夢」という言葉を使っていたので、ここでは、これらの大切なものを「文化的な夢」と名付けてみる(「夢」は、「日常の中における非日常」とも言えるかもしれない)。
私の文化的な夢は「演劇を創作すること」、「劇場」、「友達と一日中、予定も立てずに気ままに出歩くこと」、「旅行」など。この1年強、これらのうち劇場に行くこと以外、殆ど出来ていない。でも私は生きている。
文化的な夢が一時的に奪われたり、自主的に我慢したりしても、すぐには死なないのだ。
しかし、心は渇いていく。どんどん枯れていく心を感じながら、ネット上で誰かがその人にとっての文化的な夢を満喫しているのを見たとしたら?それが自分にとってはどうでもいいことだったら?
その人が文化的な夢を守り、楽しんでいるせいで、自分の文化的な夢が実行できない、我慢しなければならないように感じてしまうかもしれない。
加えて今は、自分の文化的な夢を守るためには我先に声をあげて、これが大切なことであると主張しないといけないような時期だ。
それが転じて「そんなことしなくても生きていける、不要不急、自粛しろ」という他人の文化的な夢を攻撃する言葉になっているのだと思う(本当は私とあなたの大切なことは、異なるものでも両立できる方法があるはずなのに)。
ムトにならないとやってられない状況になったのは、①ネット上の世界が現実を映しているように見えること②文化的な夢を後回しにしなければならなくなったこと、の主に2つが、関係しているのではないかと今は考えている。

素晴らしき日曜日

本作では観客に画面が見えない方向にテレビが置かれており、最後にはテレビから、黒澤明監督『素晴らしき日曜日』のラストシーンのセリフが聞こえてくる。見たことがなかった為、あらすじだけ調べた。

『素晴らしき日曜日』(すばらしきにちようび)は、1947年公開の日本映画である。監督は黒澤明。(略)敗戦直後の東京で貧しい恋人がデートをする姿を通して、当時の日本社会の厳しい現実をリアルに直視しながら、恋人たちがそれに立ち向かい力強く生きようとする姿を描いた(略)。劇中の終盤では、登場人物がスクリーン中から観客に向かって拍手を求めるという実験的な演出を試みている。(Wikipediaより・5/1閲覧)

戦後日本と現在では、無論状況は異なるが、やはり生活のなかで何かを我慢すること、特に、他人の目を気にして自分の文化的な夢を我慢するということは起こっていたのではないか。
最後の場面でテレビをつけたらラストシーンが流れたことから、本作中、ずっと映画のなかで二人はデートをしていたのだと思った。
テレビの向こうにある戦後とこちら側のコロナ禍。どちらも文化的な夢を巡って人間同士が揉めたり傷つけあったり、うまくいけば仲直りしたり。
そして最後、テレビから「拍手をお願いします」という声が聞こえたとき、そして配信映像のなかで観客席から拍手が起こったとき、戦後・2020年春・今が一気に繋がり押し寄せてくるようだった。

最後に

珠希役
「適当に」「ふらふらやってる」「みんなに合わせてあげてないと」というセリフが印象的だった。多分珠希は全然適当な人では無くて、周りを見ながら気を配りつつ、それを周りに見せない人物なのだと思う。それは、俳優が舞台上で行う仕事にも似ている。俳優として周りを見ながら、周りに気を配りつつそれを感じさせない珠希を演じるというのはとても複雑で、今書いていてもよくわからなくなってしまう構造。しかし珠希は、気がつくとリビングにやってきて、ベストタイミングで声をかけ、気づくと相手のために何かしようと去っていた。それは戯曲上に描かれた珠希の行動ではあるが、同時に俳優の判断が大きく影響していることに間違いない。

由乃役
怒るというのは、非常に大変なことだ。エネルギーを使うし、日本語には怒るための言葉が少ないと私は感じているからだ。最初から最後まで、一番怒ったり相手にぶつかっていったりする由乃を演じるためには、相手の言葉や目線や表情や、舞台の外で起こっていることや、自分の置かれている環境の変化に、始終敏感でいなければならなかったと思う。つまり、俳優自身は非常に冷静だったのだろうなと。なので、いくら怒っていても、安心して観ていられた。

あん役
「悲しいセリフ」を言うのは、私が一番苦手なことだ。何故なら、すぐ悲しそうな表現をしてしまうから。あんは、ごめんなさいが口癖だったり、怒られたり、過去にトラウマがあったり、「悲しいセリフ」が多い。でも、「悲しいセリフ」は、あんが悲しく辛い思いをしているということがすでにセリフに書かれているから、わざわざ悲しそうな表現をしなくても、十分だと個人的には思う。その点、俳優は非常に淡々とセリフを発し、自身の柔らかく素敵な声も相まって、余計な(私がやりがちな)「悲しそうな表現」を全く感じなかった。それが余計に、その言葉があんの口から発せられるという状況の悲しさを増幅させていた。

茉緒役
起こった出来事に対して反応していくのと、自ら出来事を起こしていくのと、両方やらねばならない、大変な役どころだ。特に自ら出来事を起こさなければならない時、大抵の俳優は(私も含め)自分一人で頑張り続けてしまうが、茉緒を演じた俳優は、ひと踏ん張りした後はすぐに相手にも仕事を分担して、反応の掛け合いにすんなり移行させていた。これが、本作が「4人で暮らすシェアハウスの話」として成立していた大きな勝因だったと思う。他の登場人物より少し年上で、本人よりは大分年上の役を演じられたのも、仕事や会話をうまく回し流れさせていく俳優としての技量あってのことと思う。

テクニカルチーム
私自身、テクニカルに関してはあまり知識がないが、珠希が窓を開ける時の音のタイミング、夕方の陽の落ち方、ブレーカーの落ち方、衣装の色味と質感と登場人物それぞれ/俳優それぞれに似合う服、膨大な美術と小道具の管理、どれも、とってもいい意味で、まったく気にならなかった。私が俳優であることから、特に俳優に注目して観る癖があるのだが、その時に、「今音ずれたな」「今照明間違っていたんじゃないかな」「なんか衣装似合ってないな」「俳優の演技と美術が合ってないな」そう感じる演劇の、なんと多いことだろう。だから、今テクニカルチームの仕事を改めて思い返して、「わ、何も気にならなかったな」と驚いている。
あの、舞台上でありながら地に足の着いた、隣の家の窓を眺めているようでありながら自分が野良猫のようである、そして最後には窓がふいに無くなるような、不思議な距離感覚の作品世界を支えていたのは、テクニカルチームの仕事だ。

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