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生の倦怠感

生が地上で,死が水中

私たちは意識を持ってからずっと地上で生活している.
近くには海があり,底が見えないほど深く暗い.私たちは,いずれその海に飛び込む自分を想像し恐怖を抱く.飛び込んだらエラ呼吸できることを忘れ,ただただ光の反射しない暗い海に怯える.


この文章は,ダラダラと生死について考えたすこぶる暗い内容になっている為,元気な時にお読みください


死とはなんなのか

生物として
生から死に行く過程における忌避反応を生物としての自分が持っていて,今まで自分が感じていた痛みの延長戦として死を捉えてしまう.

人間として
死後のことを考える.今まで自分の認識していた「客体的世界」から自分という存在が消える.同時に「主体的世界」は消滅する.

前者に対する恐怖は,自分の身近な死から体験,想起させられるものだと思う.大切な人が私の死に対し,悲しんでいることを想像して,以前死に関わった体験を投影する.
後者に対する恐怖は,杞憂である.自分の一切の消滅をした際に感情なんてものはない.

生と死の状態は等価である

生きることの反対は死ぬことではない
生の状態 ↔︎ 死の状態
産まれる ↔︎ 死ぬ

大義のない世界

生きることに希望も絶望も抱いていない.そこまで期待していないだけだ

豊かになった弊害として,生に対して喜びを感じることは無くなった.
革命を起こそうという活力もない.
世界に対して,大きな不満があるわけではない.少しの不安と己の力で現状は変えられない無力感があるだけである.それは,飲み会で友人に愚痴としてこぼすだけで解消される程のものである.

希死念慮

自分の生に執着が無くなる.いつ死んでもいいと思いながら,楽観的に生きていく.
とりあえず生という現状を維持し続ける

その中で不意に死を願う瞬間がある
別に何があったわけではない 
日々を過ごしていく中で様々な感情のゆらぎを感じ,これからも感じていくのだろう.仮に明日,未知の幸福感を味わうとしても別に体験しなくていいではないか.
テレビのコードに引っかかって突然画面が真っ暗になるように消えて無くなる.仮にその物語がハッピーエンドだったとしても.

死を実行するには,先ほど述べた”生物としての死”に対する恐怖を無くす必要がある.一般的に用いられているものとしては,アルコールや自傷行為,暴走行為であろうか.

私の希死念慮

  • 1Q84 への憧れ
    村上春樹著「1Q84」のシーン.
    主人公青豆の日々のルーティン.目隠しをし,ヘックラー・コッホというハンドガンの弾倉に弾をこめ,セーフティーを外し,口に咥える.
    本自体の内容は覚えていないが,そのシーンだけは強烈に印象に残りっている.同時に少し憧れてさえいる.
    死がすぐそこにある.何も考えずに人差し指を折るだけで死を迎える.
    この行為を繰り返し行うことにより,一切の恐怖を抱かず,脈拍も上がらない状態になる.生と死の境目が曖昧になる.

  • 体操
    死にゆくのであれば,シライ2くらいは決めたいものだ.判定委員はいなくてもいい.

  • スイス旅行
    保険として死を持つのであれば,スイスへの旅行のためのお金を持てば良い.デスツーリズムへ出発だ

みんなの希死念慮

以前こんな記事を書いた.NHKが設けている,死にたい人向けの掲示板である.内容の半分は圧倒的な自己嫌悪に陥り絶望している言葉.もう半分は,愛する人と別れ悼む言葉.(やっとの思いで言葉を吐いている人達のメッセージを勝手にカテゴライズするべきじゃない.)
どちらも大きく『他』が関わっている.私の感じる死への欲求に『他』が登場しないのだ.

生へ向けて

散々,「死」に向けてのベクトルの話をしたので,同じ量「生」に向けてのベクトルの話をしよう.

しあわせ

人間なので,ずっと幸せな人なんていない.雨が降れば気分は落ち込み,お腹が空いたときにご飯を食べると美味しいと感じる.
どこかの誰かと成り代わったとしても人である以上絶対的な幸福は得られない.

ましてや,人の幸福度は50%遺伝子で決まるらしい.残りの40%は,意図的な行動,10%は環境だそうだ.

100%変わったとしても幸せにはなれなくて,かつ自分の自由に使える駒は半分しかない.

「幸せ」とはなんだろうか.
脳内のドーパミンやセロトニンなんかの所謂「幸せホルモン」の分泌だとすると量的に幸せを図ることができる.
目標を立てて行動し,他人から誉められ,美味しいものを食べて,恋人とセックスをしてドーパミンを増やす.
朝日にあたり,適度に運動し,十分な睡眠をとってセロトニンを増やす.
いい人間関係を構築し,動物とふれあい,オキシトシンを増やす.

こう書くと,至極真っ当な「これがあれば幸せリスト」が出来上がった気がする.悪くはない.
ただなんとなく腑に落ちない.「幸せ」って絶対的なものじゃなくて,波のように揺らいでる気がする.「これがあれば幸せリスト」を達成している人はごまんと居るだろうけれど,その人は恒常的に幸せだろうか?

上のような幸せを求めるのは無謀な挑戦な気がしてきた.

「なんとなーくー なんとなーくー なんとなーくー 幸せー」
みたいな幸せがいい.

予定のない天気のいい休日,日が差したベッド,まどろみの時間.
こんな感じが一生続けばいい.


なんかダラダラと暗い言葉を連ねてしまった.
次はすこぶる明るい文章を書こう.