無理のないセーフティネットの作り方。小川さやかさんと「チョンキンマンションのボス」に教えてもらったこと。


「日本は生きずらい社会だ」なんて話を時々聞くことがある。年間の自殺者数は減ってきているとは言え、今でも人身事故で電車が遅延することは珍しくないし、少子化なのに10代の若い人の自殺は増えているみたいだし、母子家庭の貧困問題や、技能実習生、いじめや虐待のニュースなんかを見ても、日本という国はたしかに、みんなにとって生きやすい社会にはまだまだ遠いように思う。

僕の周りにも何人か、この社会に生きずらさを感じている人がいる。「将来家族を養うだけのお金を稼げるようにもっと努力しないといけない」だとか、「正社員として企業に勤めているけれど、今の給料じゃ子どもを育てる余裕はないし、いつまで働けるかわからなくて将来が不安」とか、「仕事がつまらないし人間関係もしんどいけど今よりいいところに転職する自身がないから今の仕事をやめるわけにはいかない」とか。

そんな人はきっとたくさんいて、ストレスやプレッシャーを感じながら日々生きている人に、もっと楽に生きてほしいなあと思いながら、本を紹介したくていまnoteを書いている。

僕はというと、大学を卒業して最初に就職してから今も働いているのが福祉の現場で、同じ大学を卒業した友人たちと比べれば給料はかなり低いほうなのだけど、給料以外に職場がらみの人の繋がりからもらっているものは計り知れず、食料とかの現物もそうなのだけど、一番大きいのは「このコミュニティとのつながりを持ち続けていればこれからもどうにか生きていけるだろう」という安心感だと思う。

たとえ給料は低くてもいろんな人の助けを受けながら(彼自身も仕事内外でいろんな人を助けているわけだけども)共働きで複数の子どもを育てている男の先輩は何人もいるし、何より安心できるのは、その先輩が楽しそうに働いていることで、自分も働き続ければそうなるのだろうなあというイメージがある程度持てる。今の仕事をやめたとしても、もし困ったらここにいる誰かに相談すれば最悪何とかなりそうだという漠然とした感覚もある。


社会の見え方って、その人の周りのコミュニティやこれまでの経験や気質に左右されていると思う。同じ地域に住んでいる同世代であっても、ある人にとっての「社会」と、別の人にとっての「社会」の印象は全然違っていて、「日本社会」とくくって話してみたりするけれど、日本にはお金があっても将来が不安な人もいれば、あんまりなくても、どうにか生きていけるだろうという感覚の人も実は多いんじゃないかと思う。ポジティブかどうかといった気質や、自分のこれまでの経験をどう捉えるかを変えることは簡単ではないけれど、自分の周りのコミュニティを自分にとって生きやすいものにすることは、身近で小さなところから始めれば、意外とやりやすいことかもしれない。

育つ過程でいろいろとしんどい経験をしたことも、敏感な気質だったこともあって、僕は元々自尊心が高くもなければポジティブでもなかった。(自身のなさの裏返しの傲慢さはあったかもしれない。)それでもいまなんとなく安心して、未来に絶望せずに生きていられるのは、古くから付き合いのある友人や同僚をはじめとして、互いにしんどいことも話すことができたり、助けが必要なときに支えあえるコミュニティがいくつかあって、困ったときに助けを求めれられる人が周りにいるというのが一番大きいと思う。

前置きがずいぶん長くなってしまった。

僕がしたいのは本の紹介だった。

「チョンキンマンションのボスは知っている: アングラ経済の人類学」という、立命館大学教授の文化人類学者、小川さやかさんが2019年に出した本だ。

昨年末に出版社で編集の仕事をしている友人と会ったときに話題に上がったのがこの本で、僕は以前この本のことを雑誌で知って気になっていたものの当時まだ読んでおらず、編集者のその友人からこの本のエッセンスをちらっと聞いたとき、この本で紹介される香港のチョンキンマンションに集うタンザニア人コミュニティの助け合い方が「うちの職場と似てる!」と言ったら、「職場のことを書いたらいいんじゃない?」と勧められた。そのとき僕は、デンマーク語の本の翻訳家になるにはどうすればいいかその友人に相談していたのだけれど、別のことを書いた方がいいのかもしれないと思った。

僕の職場やその関係者さんは優しい人ばかりで、晩ごはんのおかずを分けてくれる人がいたり、風邪をひいていたらカボスのシロップで作ったジュースを分けてくれたりする。シェアの文化が当たり前に根付いていて、事務所においてある名前の書いてない食料は自由にとって食べていいという暗黙の了解があったりする。福祉の仕事をする人たちが元々優しいのか、働いているうちに人に親切にしたり人を助けたりする喜びを知って優しくなっていったのかはわからない。そういう点で友人がこの本の内容についてその日語っていた、「大人数のコミュニティで互いに事情を深く知らなくても助け合う」というのはうちの職場に似てるなと思ったのだ。

年が明けて図書館でこの本を借りて読んだら、僕の勤める職場の良さを振り返るきっかけになると同時に、とても効率的で無理のない助け合いの形がこの本には書かれていて、驚くことばかりだった。


とにかく刺激的でおもしろいので、もうこれ以上僕の書く文は読まなくていいから、ぜひ本を読んでほしい。本がすぐ手に入らなければこの本ができる元になった春秋社のウェブ連載の「チョンキンマンションのボスは知っている――香港のアングラ経済と日本の未来 小川さやか」の最終回だけでいいから読んでほしい。



読者にこの本やウェブ連載を読んでもらえたらそれで満足なのでもう書くのをやめようと思ったけれど、せっかくなので本の内容から一部引用する。第二章「『ついで』が構築するセーフティネット」より。

彼らの日常的な助け合いの大部分は「ついで」で回っている。例えば、2017年1月頃、カラマたちはオーバーステイの罪状で三ヶ月間収容され、刑務所から出てきたマバヤの面倒を見ていた。マバヤが無一文になったことをカラマは知っており、昼食や夕食の時間に偶然に彼と居合わせた時には彼に奢っていた。だが特に彼を気にして誘う様子は見られず、タイミングが合わなければ、それっきりだった。それでもその日に羽振りが良かった誰かは偶然彼と居合わせるので、マバヤはいつも食事にありつけていた(中略)知っていることなら親切に教えるし、ついでに出来ることなら、気軽に引き受けてくれる。だが、無理な相談はさわやかに聞き流し、自分の都合に応じて約束を連絡なしですっぽかす。(「チョンキンマンションのボスは知っているーアングラ経済の人類学(2019)p84~85)


この本に書かれている「無理のない範囲でついでに人助けをする。余裕のある人は当たり前のように困っている人を助ける。遊びを仕事の中心にする」っていうのは、人助けをすでに仕事にしてる人にもすごく大事なことだと思う。仕事だからといって義務感に駆られて人助けをしても無理がでてくるし、無理しすぎて相手のことが嫌いになっちゃったりしたら良くないから、しんどければまず自分が休むことのほうが大事だし、人助けをすべきだから助けるというより、相手との関わりや経験がおもしろいからついでに助ける、くらいの方が無理がなくていいのかもしれない。

たとえば、職場で自分が温かい具沢山の味噌汁を食べたいからついでに他の職員の分を作ったり、自分の子供を育てる前に子育ての経験をしておきたいから、一人で育児している友達の相手を1日してみるとか。自分が興味あってやってみたいとか、おもしろいと思うことで人助けをするのがいいんだろうな。

体力に余裕のあるときにどこかで労力をシェアしてみたり、あまったものを友人や同僚にシェアしてみたり、気持ちにちょっと余裕があるときに人の悩みや相談を聞いてみたり、そんな風に無理なく人を助けることが当たり前にできれば、逆に自分が困ったときに人に助けを求めやすくなって、そういう繋がりがある程度増えれば、それなりに安心して生きられる気がする。

もしかしたら、1対1よりもある程度人が多いコミュニティのほうが、困ったときに助けてもらいやすいのかもしれない。「チョンキンマンションのボスは知っている」で描かれているのも、1対1のつながりでの恩返しなどではなく、見返りを求めず、金銭的な負担や援助の量が均等でない、数十人のコミュニティでの無償の恩送りの話だった。

引越し先とか、あんまり身寄りのない状況でそういうコミュニティを手っ取り早く見つけたいならボランティアが良いと僕は思っていて、(そういう狙いでやったわけではないけど)奈良に引っ越してからゲストハウスの仕事の手伝いとか、自立援助ホームでのボランティアとかをやってみたら、近所のスーパーでばったり、ボランティアで知り合った人と会って立ち話をしたりとか、そういうことがあるだけで地域に知り合いがいる安心感が得られたり、困ったときはそこにいたら誰か助けてくれそうと思えたりする。

なんとなくそうした集団・コミュニティにいくつか属して貢献しておいて、困ったときには助けてもらう、というのが、自分の周りを「生きやすい社会」にするひとつの手段なのかなと思う。体力とか時間とか、ある程度余裕がないとできないことだとは思うけれど。

最後、「ボランティアの勧め」みたいな話になっちゃったけど、余裕のあるときに人を助けておいて損はないなあというのは、職場でもプライベートでも、日々感じることです。



たまには遠くを眺めてぼーっとしようね。