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本当の恩返しとは、いま自分自身が燃えて生きることーー亡き恩人へ捧ぐ

今年8月、僕の恩人が亡くなった。

「編集の仕事がしたい」という一心で、滋賀の田舎から夜行バスに乗って面接に押しかけた僕を、その編集プロダクションの社長は温かく受け止め、上京のきっかけをつくってくださったのである。

人生で、初めてまともに接する東京人。ひそかに憧れていた標準語のイントネーションも、切れ味の鋭い質問や、ちょっとした身のこなしも、そのすべてがまぶしかった。

僕はこの社長のもとでアルバイトをしながら就職活動に励み、その最中に、現在携わっている雑誌と、それを発行している出版社の存在を知ることができた。

それもこれも、社長の計らいがなければ叶わなかったことで、僕には感謝してもし尽くせない人である。

「社長があの時、声をかけてくださったから、私はいま、ここにいられるんです」

「何とお礼を言ってよいのやら分かりません」

伝えたいことは山ほどあった。いつか時間ができたら、お礼の気持ちをこめ、食事の機会でもつくらせてもらえれば、と一人考えてもいた。

8月30日。

夏季休暇を利用してひさびさに立ち寄った社屋で、元先輩社員の方から聞かされた突然の訃報をどんなふうに受け止めればよかったのだろう。

死因はがん。

本人の強い希望により、周りの人には知らせないことにしていたのだという。49歳という若さだった。

中村天風の言葉に、「真理は誠に厳しい。あなたの都合に合わせてくれない」とある。折に触れて思い返す言葉だが、この時ほど痛切に、我が身に迫ってきたことはなかった。

「死は前よりしも来らず、かねてうしろに迫れり。人みな死あることを知りて、待つことしかも急ならざるに、覚えずして来る。沖の干潟はるかなれども、磯より潮の満つるがごとし」(兼好)

(人は誰でも、死の来ることを知っているが、そんなに急にやってくるとは思ってもいない。だが、死は予期せぬ時、突如として来る。沖のほうまで干潟になって、はるかな向こうまで広々としている時には潮が来るとも思わないが、突然、あっという間に磯のほうから潮が満ちてくるのと同じようなことである)

以前、弊社社長が「いつまでも親のそばにいて、心配をかけないことが親孝行ではない。本当の親孝行とは、自分自身が燃えて生きることである」と、社員に話したことがある。自分にとっての恩人といえる人に対しても、同じことが言えると思う。

人は必ず死ぬ。そしてその死を切実に噛み締める時、人は本当の生を生き始めるような気がする。