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真夏の夜の夢~野外音楽祭

初夏のこと。ある音楽祭が地元で初めて開催されることを市報で知った。演目を見ると、なんと、あの伝説のピアニスト、マルタ=アルゲリッチが来るではないか。彼女の演奏を生で聴いてみたい。でもその日は学年末で忙殺されていて無理だろうと、はなからあきらめていた。ところがコンサートの当日、ピアニストの友人からメッセージが届いた。「今朝サイトを見たら、チケットが残っていたから即買ったわ。息子も一緒に行く」激しく心が揺れた。これはもう行くしかない。出先だったため、必要な情報が手元になくオンライン購入は断念。一か八か、直接現地へ行ってみることにした。
 
駐車スペースがなかなか見つからず、到着が開演直前になってしまった。門をくぐり、子供の手を引きながら急ぎ足で受付へ向かう。受付のマダムに用件を聞かれ、最奥にいる男性のところへ通された。ところが、「20時の回のチケットはもう売らない!席の数以上のチケットを売ってしまったから。22時の回ならまだ席があるからそっちにして」と癇癪気味に言い、見事に断られてしまった。途方に暮れていると、男性の隣に座っていたマダムが我が子を見るなり、「こんな小さな子がこのコンサートを聴きにわざわざここまで来ているのよ。そんな冷たいことを言わず、通してあげなさいよ」と言うと、もう一人のマダムも「22時なんて無理に決まっているじゃない。何とか入れてあげてよ」と加勢した。男性は根負けし、「分かった。これがほんとにほんとの最後だよ。売ってあげるけど席がなくても知らないよ。これ以上は絶対にチケットは売らないからな」と大きな声で言い、しぶしぶ了承してくれた。この国の、こういう人間味あふれるところが私は大好きだ。
 
急いで会場に向かった。隅の席がまだ空いている。夏時間のフランスは、20時を過ぎてもまだ十分に明るい。城を背景にオーケストラのステージがよく映える。いよいよ開演の時間だ。司会者が、市長と音楽監督を連れて登場した。この音楽祭の経緯を市長が簡単に説明した。「地元に根付いたクラシックの野外音楽祭を作りたい」、「月並みな祭典ではなく、若い音楽家同士を交流させ、クラシックに疎遠な聴衆、特に若者を結び付けるものにしたい」と、プロのヴァイオリニストでもあるこの若き音楽監督が市長に直談判して実現したものだそうだ。少し猫背でシャイな印象の音楽監督が意気込みを語った。彼の不慣れな拙いスピーチに、私はかえって、内に秘めた彼の強い信念と熱い情熱を感じた。
 
コンサートが始まった。才能豊かな、まばゆく、はちきれんばかりの若さを身にまとった音楽家たちが、オーケストラの演奏に合わせて、次々とステージで演奏していく。そして、会場に瑠璃色の夕闇が差し始めた頃、いよいよマルタ=アルゲリッチが登場した。空気が一変する。時折風が吹く。城を背景に、彼女の長く白い髪が幻のように風に揺れる。彼女が奏でるモーリス=ラベルの神秘的な音の数々。消え入るような微弱音がそれはそれは美しく、溜め息が出た。世界レベルの音楽を地元で気軽に楽しめること、友人がたまたまメッセージをくれたこと、そして何より、受付で通してくれた人々の善意に心から感謝した。

追記
後日気づいたが、実は私は、若きこの音楽監督の演奏を一度パリで聴いた。2015年、彼は小澤征爾スイスアカデミーで室内楽を学び、その締めくくりとして、パリのフォンダシオンルイビトン美術館で、小澤征爾指揮のもと、アカデミーの若き才能あふれる音楽家たちと演奏したのだった。弦楽アンサンブルの曲目は、ベートーヴェンの弦楽四重奏第16番と、グリーグのホルベルグ40番。その感動体験は一生忘れないだろう。いつか文章にしたい。
コンサート動画はこちら。
https://youtu.be/s43TPuZsQTY

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