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私たちの心に棲む山姥とは⑥ エピローグ「内なる自然」としての山姥イメージ
5回にわたって、山姥のお話を取り上げてきました。これ以外にも山姥にまつわるお話はたくさんあり、まだまだ興味は尽きませんがとりあえず、今回はここで区切りとし、私なりに感想を書いてみます。
お話ごとに山姥は様々なユニークな顔をみせてくれました。
すべてのものを食い尽くすほどの貪欲さ、恐ろしさであったり、人の人生を有無を言わせず変えてしまうような気紛れさだったり、ときには危ないものから守ってくれたり、助けてくれもするけれど、その代わりに自分に対しての相当な覚悟も要求してくる厳しさもあったり・・・
いろいろなお話を読みながら、山姥は私たち誰しもがそれぞれの存在のなかに持つ「内なる自然」のイメージなのではないかと強く感じています。
自然というと、私たちは、自分の外側にある自然を思い浮かべがちです。外側にある自然を考えてみると、それこそ大昔から、私たちは自然の豊かさに育まれ、その恩恵に預かる一方で、ときにその威力の凄さ、狂暴さに畏れを抱き、自然の前では人はいかに無力であるかを思い知らされる歴史を生きてきました。
人類の自我の発達とともに、人間は、自然の脅威から身を守るためだけではなく、自らの欲望のために自然をどうにかコントールしようとして、自らも自然の一部であることを忘れ、自然との共存の道をとってこなかったことが、現在の深刻な地球温暖化問題を引き起こしています。
ここでは環境問題を述べるつもりはありませんが、外側の自然に起こっていることと私たちの内側にある自然とは決して無関係ではないはずです。
山姥のお話は私たちの心にある「内なる自然」の存在、その豊かで根源的な生命力とともにその脅威を思い起こさせてくれます。
妊娠も出産も自然の営み、そして私たちは、自然ありのままで生まれてきました。おぎゃあ、おぎゃあと泣き叫びながら・・・(ちなみに私は激しく泣きすぎて、血を吐いたという出生時のエピソードがあります 笑)
そして、社会という枠組みのなかで生きていかなければならないわけですから、躾けや教育を授けられ育っていきます。
そのなかには生きていくために必要な学びもたくさんありますが、同時に失っていくもの、社会適応に不具合なところは。「良くないもの」として削ぎ取られてしまうか、抑圧されてしまう、そんなことも多々あるのではないでしょうか。
削ぎ取られたり、抑圧されたものは、なくなったわけではありません。自我が取り込まなかっただけであって、無意識を含めた「私」のなかには、なんらかの形で存在しているのです。
もちろん自然(野生)剥き出しでは、社会生活をうまく営めません。けれども、自分の内に存在する「野生」すなわち、自然のありようは、いろいろな意味で実はとても大切なのです。
自身の「内なる自然」を疎外し続けると、どこかで強烈なしっぺ返しを食らってしまうのではないかと思うのです。
例えば「飯食わぬ女房」の夫のように、合理性や効率性ばかりを重んじたり、周囲からどう見られるかを気にしすぎて、体裁を整えることばかりにエネルギーを使っている(内なる自然をコントロールしようとしていることに繋がる)とそうした価値観にそぐわないさまざまな性質を負のものとして必要以上に抑圧することになります。その負のエネルギーが内側に充満して、いつかそのエネルギーがとんでもない形で自我を脅かす、まさに食わず女房の逆襲のような、そんなこともあるのではないでしょうか。
どんな人にもその人ならではの個性があり、その個性に基づいた欲求があります。それ自体に良い悪いはないのですが、育ちのなかで、良くないものと認識されることがあります。「内なる自然」の姿を否定されてしまうと、生き延びるために本来の自分にそぐわない型にはまるしかなくなります。そうしているうちに、本来の自分がいったいどういうものであるか、何を欲しているのかわからなくなってしまうことがあります。
話が少し逸れますが、スキーマ療法の考え方には、人が本来持っている中核的感情欲求というものがあります。
① 愛してもらいたい、守ってもらいたい、理解してもらいたい
② いろいろなことが自分でうまくできるようになりたい
③ 自分の感情や思いを自由に表したい。自分の意志を大切にしたい
④ 自由にのびのび動きたい、いきいきと楽しみたい
⑤ ある程度自分をコントロールできる自律性を持ちたい
どれも人間の自然なあり方としてあたりまえの欲求ですが、これらがすべて満たされることはありません。育っていくなかで、どこかしら満たされなかったり、阻害されたりということも起こりがちです。それもある意味どうしようもないのです。親や教師も完璧ではありえませんから。
カウンセリングのなかで、この中核的感情欲求について取り上げていくと、これらが人のもつ欲求としてあたりまえであるということさえ、ピンとこない人がたくさんいます。
「内なる自然」との繋がりがいつのまにか切れてしまっているのですね。
今まで、陽の目をみなかった自分のなかにある「内なる自然」(「野生」)に光をあてていくと、それは、そんなに悪いものではなく、むしろ上手に付き合えば、たくさんの恵をもたらすものであり、自分自身の創造性の源でもあることに気づくことができます。
同時に「内なる自然」と関わるのは、そう容易いことでもなく、ときにその難しさや厳しさに怖気づくこともあろうかと思います。
「米福」が行なった山姥の頭のおぞましいシラミとりだったり、「蛇婿入り」の末娘のように自分で大蛇退治をやり遂げるなど、ここぞという大事な場面では、山姥に守ってもらうだけではなく、自らの意志で行動する覚悟を求められたり、試されたりということが、現実の世界においてもあるように思います。
社会適応に困難を感じてカウンセリングを受けられる方々のなかには、再び「内なる自然」と繋がりを取り戻すと、それと共存しながら、本来の自分を疎外しない自分らしい生き方を見い出していかれる場合があります。
山姥は、里の規範にそもそもあてはまらないといいます。
山姥は、その本質があいまいであり、多義的であることによって、里の規範そのものを無化するのである。・・・産む力、育てる力、母性、豊饒なからだをすべて持ちながら、同時にその力が過剰であり、里の女の性役割から逸脱している・・・里の女がもつべき「女らしさ」、つまり、貞淑、従順、慈悲、寛容、謙譲などの徳目を欠落し、自由奔放で逞しく、荒々しく粗野で、自己の欲望が明確で、感情や自己主張が激しい。怒らせると里の人々を襲い、懲らしめ、破壊もするし、理由なく悪さもするが、非日常の時には、神のような超人的な力で里の人を助けたり、救ったりする。里に棲もうとしないが、里を嫌っているわけでもなく、気が向けば山から下りてもくる・・・
上記の文章は、ジェンダー的視点から書かれてありますが、男女を問わず、 私たちは「内なる自然」を社会の枠にはまらないからといって価値下げしたり、無用に扱うのではなく、そのパワーを大事にしながら、そしてその危険性も認識しながら、社会と個人の世界とを自由に行き来できるように育む知恵が必要だと考えます。
私自身、きっと若い頃は、自分のなかの山姥に目を向けることはできなかっただろうと思います。誕生のエピソードは激しかったけれど、その後の私は、社会からはみ出さないように必死に周囲に合わせて、自己主張もせず、目立たぬように生きていましたから。そしてそれはそれなりに上手くいっていたので、あえて心の暗部をのぞき込むこともしませんでした。
しかし中年期が訪れた頃、外側の適応は順調であったにもかかわらず、自分が自分をちゃんと生きれているのだろうかという疑念が頭をもたげ始め、息苦しさを感じるようになったのです。そしてちょうどその頃、「狼と駆ける女たち」(クラリッサ・ピンコラ・エステス著)の本との出会いがあり、それをきっかけにユング心理学を軸にしながら、さまざまな物語や神話の世界から、生きる知恵を少しずつ学んできました。
還暦を過ぎて、見た目ももはや婆だなあと思うこの頃になって、ようやく自分の心のなかにある山姥と関わることができるようになったのかもしれません。
自分の内なる自然にもっと身を任せても大丈夫、そんなふうに思えるようになったら、ずいぶんと自由になり、楽にもなった気がします。
これからも、自分の内なる自然「山姥」のイメージを大切にしていきたいと思います。
最後までお読み頂き、ありがとうございました。