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人生のアレンジメント(計らい)〜ちっぽけな自我とそれを内包する広大な自己〜


どんなに努力しても、実を結ばないことがある。
どんなに心砕いても、伝わらないことがある
こんなに頑張ったのになあ… あんなに色々と考えたのになあ… やっぱり自分はダメなのかなあ…
無力感に心折れ、気持ちが萎える、すべてが嫌になってしまう。そんなときありませんか?

自我(意識の自分)は所詮、ちっぽけなもの。でもその自我が自分のすべてだと思っていると、ネガティブな気持ちに押し潰されてしまう。

自我(意識の自分)は外の世界のセンサーのようなものだから、外の世界で起きることに振り回されたり、捕われたりしがちだ。自我はそんなふうにいつもジタバタしている。

自我(意識の自分)は、海面に顔を出す氷山のほんの一角のようなもの。海面下には、巨大な氷の塊が隠れているように、私たちの無意識の世界は自我の領域とは比べようもないほどに広大で、それを含めて私たちは自己として存在している。 そしてその自己のなかには内なる自然がいつだって存在する。そのことを忘れてはいけない。

内なる自然に耳をすませて、そして時にそれに委ねてみる、そんな心の持ち方も大切なんだと思う。

歳を重ねるのは悪くない。時という長いスパンのなかで、ものを多少なりとも見渡せるようになるから。

あのときのあのしんどい経験があったから、今わかることがある。過去の報われなかった努力が実は内側で熟成されていて、ひょんなことから役に立つことも多いにある。どんな経験もなにかしらを学ばせてくれる。そんなことが少しずつわかってくることが歳を重ねる醍醐味かとも思う。

自我は相変わらずいつもジタバタするけれど、自分の無意識の世界、内なる自然の存在をわかって、そこからのメッセージを無視せず、ちゃんと受け止めようとしていると、自己は必ず力を貸してくれるもの。直感として、それだよ! 今だよ! と教えてくれる。

若い頃、職場で、とんでもないパワハラ上司に出会い、ひどく苦しみ悩んだことがある。そのとき、話を聴いてくれたある人は、「その人は、あなたの神様だね」と言った。

言われたときは、「ハア~?何言ってんの?」と思った。結局その仕事を辞めて、すったもんだしながらも必要なスキルを身に着けるべく新しい環境に飛び込んだ。

あのときは無我夢中でよくわかっていなかったけれど、きっと私は、その経験から、不運な出来事で終わらせず、どこか自分の問題として切り替えることを学んだのかもしれない。
「その嫌な上司は私の神様だった」という意味が今はとてもよくわかる。

良いことも悪いこともすべてがアレンジメント大いなる計らいと捉えると、難局にぶち当たったとき、乗り越える勇気が湧く。

そこにはきっとなんらかの意味がある。そしてその意味がわかるのはその時ではなく、多分ちょっと先、あるいはだいぶ先の未来かも。

意識の自分だけの力ではその意味を知ることは難しく、無意識の世界と行きつ戻りつしながら生きていくうちに見えなかったものが、今までバラバラだったもろもろのことがすべて繋がりをもって見える瞬間がある。心の底から、「あ~、こういうことだったのね」と深く納得する。ユング心理学では、これをコンステレーション(布置)と言ったりする。

自我は、とかく起伏のない真直ぐで安易な一本道を歩きたがるけれど、私たちの無意識の世界、内なる自然はそんな道を歩かせてはくれず、外側の世界と呼応しながら、山あり、谷あり、曲がりくねったでこぼこ道にあえて私たちを誘うものなのかもしれない。表面的な知識だけではない深い知恵を身につけ、それを活かして生きるために。

ちっぽけな自我を含んだ大いなる自己の存在を感じつつ、曲がりくねったでこぼこ道を味わいながら生きていく。焦らず、慌てず、諦めず、そして決して腐らずに。

と、こんな文を綴っていたら、コブクロと絢香のWinding Road という歌が突如浮かんできた♪



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