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あれから27年…

土曜日、誕生日で55歳になりました。昨年の手術前から痛いのがなくなったらいこうね…約束していた娘とトンデミで遊び、家族でお祝いしてもらいました。お祝いの連絡頂きました皆様ありがとうございました😊

1995年1月17日午前5時46分 阪神・淡路大震災。地震の規模はマグニチュード7.3を記録し、お亡くなりになった方6434人、負傷者の方は4万3792人という甚大な被害を出した。住宅被害は64万棟近くにも上り、7000棟以上の家屋が全焼した。被害総額は合計9兆9268億円。神戸市・芦屋市・西宮市・宝塚市及び淡路島の一部では初めて「震度7」が適用され大阪府内でも震度6が適用された。

当時私は大阪に住んでいました。朝大きな揺れで叩き起こされ、部屋の中を見ると当時していた熱帯魚の水槽の水が今にもこぼれそうに大きく揺れていて、慌てて水槽を抑えるために飛び起きました。

テレビをつけてもただ地震があったという報道だけで詳しい情報はありませんでした。そのうち会社に行く時間になり出勤…当時はバイクで通勤していました。会社についても誰も出社してこない…テレビをつけると電車も止まっていたりで大阪も完全に都市機能が麻痺してました。

しばらくすると所長が出社、神戸で地震が起こったという以外に詳しい情報は入らないのでバイクなら神戸に行けるんじゃない❓ 見てきてよと言われ神戸のお客様達を訪問し安否や被害状況など聞いてくることに…

国道を神戸方向へ…大阪に向かう反対車線は大渋滞、神戸に向かう車はいませんでした。神戸に入ると道路が大きく陥没し、高速道路も…

後で知りましたが、この時友達は高速で配達の仕事をしており、もう少しでこの倒れた高速道路に転落するところだったそうです。

大きな幹線道路が使えないので住宅地の道を進むと…辺り一面倒壊した家屋やブロック塀などで、水道管が破裂して水が噴き出し、辺り一面ガスの臭いが漂っています。まるで戦後の焼け野原と同じような景色が、まさかこんな…言葉を失いました。

結局お客様の所に行きましたが、安否もわからず大阪へ避難するための車列につななり大阪へ帰ってしまいました。なんであの時帰ったんだろうか…目の前の光景が怖かったんでしょうね。役に立つかどうかは別として救助の手伝いや何かできることがあったはずなのに何も出来ずに帰ってしまいました…

震災の後一週間ぐらいで友人の結婚式が予定通りありました。友達もするかどうか悩んだんですが、友達や家族の安否確認を兼ね、心を明るくしようと決断したそうです。しかし、神戸の友達の何人かは行方不明で欠席でした…すっと続く日常がある日突然無くなるんだと思いました。

それから一年半ほど復興のために神戸に通いました。トラックに資材を積んで、片道平時なら2時間の道を半日以上かけながら向かいます。トラックの資材が空になるまでは現場で作業を続け、空になったら大阪に戻り、また資材を積んで…という毎日でした。当時は店舗の仕事でしたので飲食店などを優先に食事が提供できるように…優先してすべきことなのか、他に何かできないか…悩みつつ自分にできることを…とただ黙々と続けました。

結局ひと段落して休みを取ってツーリングに来た松山に移住したのですが、きっと神戸から逃げたかったんでしょうね。自分の仕事でできる範囲でのことはひと段落はしてたのですが、震災当日に見た家が倒れていた景色がトラウマになったと思います。27年経った今でもまだ人に話せないような事もあったりします。

松山に来て今度は3.11の東北、そして熊本などいくつかの災害がありました。東北の時は全国の空き家を被害に遭われた方に無償で住んでいただくプロジェクトに関わっており、被災地に入れないかと言われましたが、またあの景色を見れないと断らせていただき、松山でサポートさせていただきました。

毎年1月17日5時46分に黙祷しています。震災のこともブログでも書くようにしています。当時の自分では精一杯のことをしたつもりですが、いつももっと何かできたんじゃ無いのか…と自問してしまいます。そして今は地震でも倒れにくい、倒れても人が逃げれる空間を残せれる安全な家…を造りたいと思っています。

もう会えなくなった友達、そしてお亡くなりになった皆様へ…
                                  合掌

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