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千宗旦(せんのそうたん)

千宗旦(せんのそうたん)は利休の後妻千宗恩の連れ子で千少庵を父に持ち、母は利休の娘お亀、少庵の京千家を継いだ千家3代目となる。家督争いを避けるために10歳の頃に祖父利休の希望で大徳寺に預けられる。16歳の時1594年(文禄3年)千家再興が叶い僧籍を離れて弟子らとともに利休流のわび茶の普及に努めた。祖父の利休が豊臣秀吉により自刃に追い込まれたことから政治との関わりを避け、生涯仕官はしなかった。茶風は祖父利休のわび茶をさらに徹底させ、清貧という意味から、乞食宗旦(こじきそうたん)と呼ばれた。折り合いが悪く勘当された長男宗拙を除く3人が、次男一翁宗守(いちおうそうしゅ)が武者小路千家(むしゃのこうじせんけ)を、三男の江岑宗左(こうしんそうさ)が表千家を、四男の仙叟宗室(せんそうそうしつ)が裏千家を興し、これら三家は、「三千家」として現代まで続いている。

武者小路千家

茶室の装飾は他の流派と比べてシンプルで簡潔にし、茶事は無駄のない合理的な所作を重視している。宗家は京都市上京区武者小路通り小川東入にあり、この所在地が武者小路千家の名の由来。主な茶室は官休庵(かんきゅうあん)。

表千家

古くからの作法を忠実に守っているの。 表通りに面していたことから「表千家」と呼ばれるようになる。茶道を「さどう」と呼ぶ。宗家は京都市上京区小川通寺之内通上るにある。表千家を象徴する茶室は不審菴(ふしんあん)の号の由来は「不審花開今日春」の語に由来。

裏千家

時代に合わせた作法を積極的に受け入れている。宗家は京都市上京区小川寺之内上ルにあり表千家と隣接している。主な茶室は今日庵(こんにちあん)今日庵の由来は、千宗旦が亭主をつとめた茶席に遅れた清巌和尚が、留守にした宗旦に「懈怠比丘不期明日(明日の命もわからないのに、大切な今日をおろそかに暮らしているのは愚かなことでした)」と腰紙に書き付けを残したのが由来。


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