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朝5時の水やり #短編小説

 ザーーッ
 水道の音で目が覚める。ワンルームのサッシから、ぼんやり白い光が差している。
 ザーーッ
 管理人の山本さんが水やりをしているのだ。エントランスには、花の鉢植えがところ狭しと並べられている。
 ザーーッ
 何度もじょうろで水をくむ音がする。

 ミカは、ぼーっとする体を起こして、明るめのアイシャドウと、買ったばかりのベージュの柔らかいスーツを身につけ、ドアを開ける。
「行ってきます。」
「行ってらっしゃい。」
少しふくよかなエプロン姿の山本さんが、にこにこと声をかけてくれる。
他の男性達に混じり駅に向かう。

 ミカはこの2か月、地方から東京のゼネコンに出向しており、この社員寮の、管理人の隣の部屋を間借りしていた。新しい仕事を覚えるのに必死で、朝5時半に寮を出て夜11時頃帰ってくる毎日だ。土日には東京観光するつもりだったが、いつもくたくたで1日中ベッドの中だった。

 山本さんは母親のようにミカに声をかけてくれていた。
「こうやってね、朝から水やりをしていると、水道代がもったいないって言う人がいるけど、水道代なんて大したことないのよ。
安い花を買ってきてね、こうやって大事に育てているの。綺麗でしょ?お金がかからない趣味よ。」

 そんな中、ミカの出向が終わり、明日で地元に帰るという日がきた。
「今日は一緒にご飯を食べましょう。
 夕方、私の部屋に来て。」
山本さんが言う。言われたとおり6時頃部屋へ行くと、2人分の夕食がテーブルに並べられていた。ご飯に味噌汁、焼魚、おひたし、煮物·····小鉢がたくさん並んでいる。
「すごい! いいんですか? こんな素敵な夕食? 」
「大したものは何もないけどね。」
「いただきます。」
毎日顔を合わせていたけど、一緒に食事をするのはこれで最初で最後。少し照れくさい気もする。
 山本さんがにこにこしながら言う。
「あなた、これからも仕事頑張ってね! もうすぐ30歳? これからよ! 女は30代の方がもっともっと充実するから。
 ほら、うちの会社も海外で活躍してる人もいるよ。そういうのもいいんじゃない?」
「え? 結婚したいの? ああ、あの引っ越しの時に来てた彼氏? そうだね、ちゃんと考えて結婚した方がいいよ。男に頼ること考えたらダメだよ。結婚より仕事だよ。」
「私はね、若い時に結婚して子どもが3人いるんだけど、夫の暴力がひどくて、子どもを置いて家出してきたんだ。
住み込みで寮母の仕事をして、転々としてきた。それでね、20年ぶりに子どもと再会することができて·····」
壮絶な山本さんの半生にミカは驚いた。
「再会できてよかったよ·····
でもね、その娘が外国人と結婚して子どもが生まれるっていうんだよ。私は心配でね、そりゃその相手は、もうイケメンでかっこいいんだけど、定職についてないっていうんだよ。どう思う?」
「それにしてもね、頑張ってね! 女の30代はとっても大事だから。充実した10年になるから。」
 ミカはずっとうなずくことしかできなかったが、山本さんの温かい料理と熱い言葉で、一生忘れられない夕食になった。

 それから10年たち、ミカは結局、その時の彼とは違う人と結婚した。仕事も頑張ってきたが、山本さんが言うように情熱的にやってきたというよりは、守りに入っていることが多かったかもしれない。

 ただ、家庭菜園が趣味になり、毎朝5時に水やりしている時、ふと山本さんのことを思い出す。彼女もこうやって、毎日花や植物に癒されていたんだな。あの時、山本さんからもらった言葉は今でもミカの宝物だ。

(終)