一国沿いをひた走る...
今回はシングル「翔」のカップリング曲「ムラサキ色」の内容について考察していきます。タイトルが色なだけあって、すごく風景がイメージしやすい曲ですよね。
頭の"一国沿いを"の部分の岩沢さんはイケボすぎてここだけリピートしまくった記憶...笑 歌詞だけでなくメロディーもすごく好きな一曲です。
引用は""で表します。
"一国沿いをひた走る まるでいつかの旅人だな
近づくたびに遠ざかる蜃気楼"
"一国"というのは、国道1号線の事を表すようですね(岩沢さんがインタビューで語っています)。東京と大阪をつなぐ長い国道です。この国道沿いを、主人公は車で走っています。
この道はいわゆる東海道の一部ですから、車のなかった江戸時代の旅人も、この道を走っていたみたいです。それを踏まえての"いつかの旅人"という表現なんでしょう。
"蜃気楼"は逃げ水とも呼ばれ、近づいても遠ざかることから、いつまでたってもたどり着くことのできないものの例えによく用いられます。主人公が一国沿いを走り続けている様子をよりいっそう強調していますね。
"誰にも知らせずに 鳴き疲れたカラス
飛べるはずの真新しい空も見当たらず"
この曲のタイトルでもある"ムラサキ色"は夕焼けのことを表しており、この文中では"カラス"という単語から夕方の風景が映し出されます。
実際に"鳴き疲れた"わけではなく、カラスの鳴き声が聞こえなくなったことを指し示していると読めます。それも"誰にも知らせずに"ですから、いつの間にか、忽然と静かになったということですよね。
また、"(カラスが)飛べるはず"の"空"が、"(今までは見えていたのに今は新しく)見当たらず"にいるのですから、これまで空を飛んでいたカラスがいつの間にかどこかに行ってしまったことを表しています。
"飛べるはず"という単語から、カラスが空を飛ぶ能力を失ったかのようにも思えるかもしれません。でもどちらかと時間経過が、主人公の見る空からカラスを飛べなくさせたのではないでしょうか。
夕暮れ時はあっという間に時が過ぎてしまい、さっきまで空で鳴いていたカラスも、いつの間にか居なくなってしまうということを表しています。
"少しだけ笑った君を見たような そんな気がしたんだ"
"君"という2人称が出てきました。後述しますが、主人公は"君"に会いに行こうとしています。したがってこの時見えた"君"とは、主人公の想像でしょう。ここで例えば、すれ違った人のことを"君"のように見えた、とするのはあんまりにも納得いかないですね。人の姿を例えたものではないと考えます。
例えばですが、空を見ていて雲の形が人の顔みたいに見えることってありますよね。たまたま"君"に似た顔を空に見つけて、それが笑っているように見えた。でも夕暮れ時は時間が経つのは早いから、"君"に似た景色を見られたのも一瞬なんだと思います。だからこその"そんな気がしたんだ"なんでしょう。
この主人公は、"君"のことを思いながら走り続けているんですね。
"さあ行こう 君の町へ 吹き抜けた風 味方につけて"
ただただ走り続け、"君"の元へと向かう姿が描かれています。
"風"は岩沢さんの詩で多く出てきますが、岩沢さんの中では、吹いてきた風は何かしらの感情をもたらすものとして描かれていることが多いように感じます。
この詩でも、主人公はきっと"君"の元に、何か伝えたいことがあって走っているのでしょう。走り出した風がその気持ちを乗せて、背中を押してくれるんです。
"ちぎれた夢の続き またどこかでめぐり逢う為の約束をしよう"
"約束"をするのは誰とでしょうか?
前の"さあ行こう"とつながっているとすれば、これは未来の出来事であり、"君"と約束をしにいくのだと考えられます。
その一方で、"めぐり逢う"のは誰でしょう?
これが"君"だとしたら、何かおかしいですよね。これから君に会いに行くんですから。
これは、"ちぎれた夢"が再び"めぐり逢う"ことの約束ではないかと思います。
主人公は"君"と夢を追いかけていた。でも何かの拍子に夢を諦めざるをえなくなり、2人はバラバラになった。でも主人公は夢をあきらめきれずに、"君"の元を訪ねようとひた走っている。
そんな情景を思い浮かべました。
"低い雲のスキマに もぐり込んだ景色 ムラサキ色した空を見た"
"景色"が"もぐり込"むって、すごい擬人法ですよね。でも、1番で歌っていたように夕暮れどきの景色の変化が早いことを考えれば、本当に景色が雲の下にもぐり込んでいくように見えたのかもしれません。
そしてその景色の向こう側には、タイトルにもなっている"ムラサキ色"、夕暮れの空が広がっているんです。
"さっき出来たばかりの唄を口ずさみながら
やがて消えてゆくムラサキ色 ...嘘みたいだ"
唄を口ずさんでいたらいつの間にか、あの美しいムラサキ色は今にもどこかへ消えてしまいそう。それほど儚い存在であることを強調しつつ、"嘘みたいだ"と、感傷に浸る主人公の様子もよく写っています。
"唄"は"君"のためのものだと思います。"さっき出来た"後に、急いで"君"の元に向かっているのですから。"君"のための唄ができてすぐ、"君"への気持ちが消えてしまう前に急ぐんです。そう考えると、唄を口ずさんでいるのは、今の気持ちが消えないように、という意味合いもあるのかもしれませんね。
あの日君と叶えられなかった夢を、やっぱり諦めきれない。今できたこの唄で、もう一度夢をつながないか。
消えゆくムラサキ色の隣で、そう思いながらひた走るんでしょう。
"今自由に逆らって突き動く悲しみよ 少しだけ黙って"
歌詞の中で唯一、感情を表す単語として"悲しみ"が出てきました。"今"、主人公の中には何か"悲しみ"がうごめいているようです。
"自由に逆らって突き動く"とはどういうことか考えます。
例えば床に落としたコップの水は、四方八方様々な方向に飛び散ります。小屋から出したたくさんの羊たちは、それぞれ思うままの方向にばらけて散らばります。
このように、自由に様々な方向へ動くことは自然の摂理と言えるはずです。
すなわち"自由に逆らって突き動く"とは、生じたものがバラバラになって四散せず、特定の1方向にまとまって動くことを指しているのではないでしょうか。こぼれた水が、直線上に集まって流れていくような状態です。
悲しみが、どこかへ広がることなくずっと、私の気持ちをただただ揺さぶり続ける。
でも今は、"少しだけ黙って"。
大事な気持ちを、届けなければならないから。
"悲しみ"の内容はわかりません。でも強いて選ぶのならば、"ちぎれた夢"のことでしょうか。夢を叶えられなかったあの時のことが、強い悲しみとなって襲いかかってくる。
そんなどこか切なく、やりきれない気持ちも、ムラサキ色の景色は写しているように思います。
"さあ行こう君のもとへ 空高く 高く舞い上がれ"
この部分も主語の補い方でかなり色々な解釈ができそうですね。私の解釈を示します。
いつの間に空からいなくなってしまったカラスたちよ、もう一度空高くへ舞うように飛びあがれ。
一番で歌っていたように、さっきまで鳴いていたカラスの声はいつの間にか聞こえなくなり、それからは空にもその姿は見当たらなくなってしまった。
その様子はまさに、主人公と"君"の夢がちぎれ途絶えてしまった儚さを表していると言えます。
そして主人公は今、その夢を繋ぎあわせようと"君"のもとへと向かいます。
もう一度、空高く舞い上がり姿を見せて欲しいと願うのは、自分たちのちぎれた夢と消えてしまったカラスの姿を重ね合わせているからではないでしょうか。
"まだ誰も知らない言葉 一つだけ持ってゆくよ そして君に届けよう"
この曲はなぜ、夕暮れ時を舞台としたんでしょうか。
夕暮れどきはすぐに景色が移り変わります。さっきまでの綺麗な夕焼けの景色が、いつの間にかもう日が暮れてしまった。それだけ夕暮れ時は時間の過ぎるのが早く感じるんでしょう。
あの日の夢も、今の"君"への強い思いも、すぐに消えてしまいそうな儚さがある。
そんな儚さを、夕暮れ時の移り変わりやすい風景に投影しているんですね。
それだけ儚いものだからこそ、多くの言葉はいらない。たった一つの言葉だけで十分なんだと言えるんでしょうね。たくさんの言葉なんて、ちゃんと持っていくことはできませんし。それなら最初から一つだけを抱えていった方がいい。
"誰も知らない言葉"って、もう既にすごく脆いですよね。自分が発さなければ、もう消えてなくなってしまう。でもその反面、"誰も知らない"からこその強さがある。"君"と描いた"夢"に対する気持ちを反映するような。
すぐに消えてしまう儚い"ムラサキ色"と、脆くて切ないけれども確かな強さを秘めた今の思い。この曲は、夕暮れ時の景色と主人公の感情との間にそんな対比を潜ませた、叙情的なナンバーでした。
岩沢さんはやっぱり、情景描写を通して人の感情を表現するのがすごく上手ですよね。
この情景描写のうまさゆえに、聞いた人がどのような風景を頭に描いたかによってその曲の受け取り方が変わるという、味を出しているんですね。
情景描写なくして岩沢文学は語れず。
これからも情景描写に注目しながら解釈していきたいと思います。
(この曲、"君"はもしかして北川悠仁のことだったりするんでしょうか?
だとしたら胸熱ですね...!!)
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