夕立ちの他に何を理由にしろというのか

こんにちは。

今回はゆずの7作目のアルバム「リボン」より、「夕立ち」について考えていこうと思います。

この曲は特に岩沢さんの詩的センスが炸裂してる曲だなって思います。こんな詩が書ける岩沢さんは天才... この曲なくして岩沢さんの世界観は語れないですね。岩沢文学の真骨頂です。長くなりますが語っていきます笑

引用部分は""で表していきます。

”夕立ちの他に何を理由にしろというのか  
何か言いたげな顔をして ごまかしては忘れてく"

突然降り出した夕立ち。夕立ちが降ると、みんな焦りだす。雨宿りしなきゃと走り出すし、濡れないように洗濯物を取りこみだす。雨が降り出して、しかも突然だから、人々の行動は大幅に変わりますよね

私は、こんなシーンを想像しました。

夕立ちが降り出したスクランブル交差点。色んなところへと向かう人々が、小走りですれ違う。

向かいから来た人同士が、ふとした拍子にぶつかり転げてしまった。

きっと、どっちかが悪いってわけじゃない。降り出した夕立ちに気をとられ、それぞれの理由で、それぞれの方向に、それぞれのスピードで動いた。「急いでいたからぶつかってしまったんだ」「夕立ちが降ってきたからだ」ホントは、「ちゃんと気をつけていなかったせいだ」「急ぎすぎていたんだ」って、心の中では分かっているはずなのに、そんな言葉を飲み込んで、全部夕立ちのせいにしてしまう。

やがて、夕立ちが晴れる頃には、そんな気持ちも、夕立ちのせいにしてしまったこともいつしか忘れて、晴れた空の下でいつも通り過ごしていくんでしょう。

でももちろんそれは、自分の行動を夕立ちのせいにして正当化しただけだから、本当の理由はモヤモヤした感覚で残ります。突然の夕立ちの中では、上手に振る舞えない自分の行動に自信を持てなくなるのだと読めます。

そう考えると、"夕立ち"って、何を表しているものでしょうか。

自分自身のうまくいかない行動を正当化してしまうような要因って何でしょうか。

どうもその正体は、どんな人でも持っている、心理の深いところにあるもののように感じます。そこでもう少し歌詞を紐解いていくことにします。

"語り合う程確かな そんな時代でもなかった"

岩沢さんの書く詩には、「確かな」という形容詞が多く登場します。「確か」の反対は「不確か」。曖昧さを持っているということです。つまり"確かな""時代"というのは、曖昧さのない時代、と言い換えられますよね。

"語り合う"という単語から、主人公以外の他の誰かが登場してきたことがわかります。これを先ほどの、ぶつかってしまった2人の例に当てはめてみます。

ぶつかってしまった同士、お互いに申し訳ないという気持ちもあるだろうし、相手への怒りなどの気持ちもあるだろうと思います。でも自分の行動や相手への気持ちは、夕立ちによって誤魔化されてしまいます。だから相手に対して弁明をしたり、相手からの謝罪などを聞いている余裕なんてないんです。

したがってこの詩における"時代"とは、

「"夕立ち"に支配された"時代"」

「"夕立ち"が降り続く"時代"」

とでも解釈できるでしょうか。そして"語り合う"とは、

「自分の気持ち、行動の理由、そして他の誰かの考えに向き合うこと」

と解釈できました。

"ただ目を塞いでばかりでも 深い闇夜にさよならは言えない"

前の文で出てきた言葉を持ちだしていえば、"目を塞"ぐとは、"語り合う"ことを放棄することを指すと言えますし、"深い闇夜"とは、"確か"でない"時代"を指していると言い換えられるでしょう。

降り出した夕立ちに支配されて、自分自身や他の誰かと向き合うことを放棄し続けていては、いつまでも時代は変わりはしないし、今の状況を打破することはきっとできないだろう、と述べています。

"想像しても飽き足らず 前進しても追いつけもせず"

1番のサビです。ここから少し主人公の置かれている環境、心理がわかってきます。

"飽きたら"ないほど"想像して"いるのですから、この主人公には目指している目標、夢があるようです。そこに向かって主人公は前進し続けますが、なかなか追いつくことは難しいようです。

"追いつく"のですから、目指している場所もだんだん前に進んでいるように見えているのでしょう。それは周りの人の姿などからそう見えるのかもしれないし、夕立ちのせいかもしれません。

"何かが君を追い越してゆく 誰かが君を笑い飛ばした"

ここで初めて3人称として"君"が出てきました。サビの部分の語り手をこれまで「夕立ちのせいにしてきた人物」と同一人物とみなすのはやや無理がありますから、ここまでの詩はいずれも、3人称視点で語られてきたと見るべきでしょう。

"何か"という判別できていない様子を表す単語を用いているところが、何が追い越して行ったのかを判別できていない"君"の心理をよく映しています。これまで傍目で見ていた語り手がそれを判別できないというわけはなく、"君"にとって何なのかわからないものが追い越していったと解釈するのが自然かなと考えます。

何が追い越したのかわからないほど、それだけ"君"は夢中だったんでしょう。"笑い飛ばした"のが人だとわかったのは、声があったからでしょうか。

自分は前進しようと夢中で頑張っているのに、一向に追いつくことはできない。そんな中で自分を追い越していく存在を見てしまったり、自分のことを笑い飛ばしてくる輩がいたり。主人公はどんな気持ちでしょうか。

自分自身の中に募るのは、紛れもなく「不安」だと思います。いつまで努力しても近づけない夢、自分を軽々と超えていく存在、それを端から見て馬鹿にする外野。周りがこんな環境だったら、「自分のやり方は正しいのか」「自分の目指す方向は間違ってないか」そんな不安に襲われるのは当然のことだと思います。

そう考えると"夕立ち"とは

前進する人の元に突如として訪れる、どうしようもない不安

であると言えるんじゃないでしょうか。夕立ちに降られ、どうしようもない不安を抱えながら、周りの人の言葉や振る舞いに傷つけられながらも、それを全部"夕立ち"のせいにして忘れてしまおうとしているんです。

"人ゴミの中すり抜けてゆく 通行人のふりをしながら 
誰かが誰かを傷つけて行く 通行人のふりをしながら"

ここでは"誰か"が"すり抜けてゆく"のであり、特定の誰かのことを表しているのではないんです。もっと言えば"誰か"ではなく、「誰もが」誰かを傷つけているのだと言えるのではないでしょうか。

サビ前半で、"君"は周りの環境を受けて自分自身に大きな不安を受けました。"君"の周りにいる"誰か"が、"君"を傷つけていると言えます。

これをこの後半の詩の内容に当てはめれば、"君"を傷つけている"誰か"は、"通行人のふりをしながら""人ゴミの中すり抜けてゆく"存在です。

では、"通行人のふり"をしているのはなぜなんでしょうか?

この"誰か"は"君"を傷つけてしまいますが、なぜ"君"を傷つけてしまったのでしょうか?

きっと、傷つけたくて傷つけたわけではないと思います。その人にはその人なりの理由があります。でもその理由を話して"君"と向き合うわけではなく、"通行人のふり"をして通り過ぎてしまいます。

これこそまさに、最初に述べた

"夕立ちの他に何を理由にしろというのか"

であるのではないでしょうか。"君"を傷つけた"誰か"は、その理由を"夕立ち"のせいにしてしまっているんです。すなわち"通行人のふり"をしているのは、傷つけたことも夕立ちのせいにして、語り合うこともせずに忘れて行こうとしているから、と言えます。

それだけではありません。この"誰か"も他の"誰か"に傷つけられているんです。"誰か"に傷つけられた"誰か"が"君"を傷つける。そしてみんな、夕立ちのせいにして、"通行人のふりをしながら"町に消えていってしまうんでしょう。

"きりがない途切れた話 季節はずれの雨の中 無意識に繰り返してゆく"

"途切れた話"は、一番でも出てきた"語り合う"ことをしようとした結果でしょうか。でも"きりがない"ほど何度も途切れてうまくいかない。なぜうまくいかないのかといえば、きっと、お互いに"夕立ち"のせいだと思っているからではないでしょうか。語り合おうとしても、お互いのちゃんと向き合おうとはできていないから、話はうまくかみ合わない。

"季節はずれの雨"はまさに"夕立ち"を表したワードですよね。"季節はずれ"っていう表現は、夕立ちが今の自分に全く必要ない邪魔な存在だということを強調しているように思えます。

しかも、夕立ちのせいにすることを"無意識に繰り返して"います。つまり夕立ちは、無意識に心の中に降り注いでいるんでしょう。

"時はずっと暗がりを泳いでいる"

一番のサビ前に、"深い闇夜にさよならは言えない"とありましたが、先の見えない状況がずっと続いているという意味で、これと同じ状態を表していると思います。ただその前に"繰り返してゆく"とありますから、より"ずっと"続いていることが強調されているように感じられます。

さらにもう一つ。一番では"さよならは言えない"とあるため、闇夜の中にいる人間が主語です。その一方でこの文では、主語は"時"です。つまりこの文からも、自分ではどうにもできない、ずっと暗いままの状態が繰り返し続いていくんだという諦めに近いような感情が汲み取れます。

"たったちっぽけな自分の為 大きい方のカバンを選ぶ 
僕は何を捨てられるのだろう 何から僕は捨てられるだろう"

一番のサビでは、誰もが誰かに傷つけられ、自分自身に自信を持てなくなっていきます。そうして自分は"ちっぽけ"な存在だと感じるようになります。

人は不安でいっぱいになると、できるだけ多くのものを周りに抱えておきたくなります。備えあれば憂いなし、そのためにはたくさんのものを入れておける大きなカバンが必要です。

その一方で、自分がちっぽけだと感じると、他の人がすごく大きな存在に感じるようになります。つまり、他の人はほんの少しのものがあれば生きていける、そんなにたくさんのものを持ち歩く必要がないように見えるから、他の人のカバンは小さく見えるんですね。

するとどうなるか。大きいカバンを持っている自分は、少しでも不要なものを捨てて、カバンを小さくしようとします。他の人に比べてカバンを小さく見せたいからです。ところがゆく先は真っ暗闇、不安でいっぱい。できるなら何も捨てたくない。だからこそ"僕は何を捨てられるのだろう"と、またここで不安になるんですよね。

考えればいいのは自分のカバンの中身だけではありません。自分に関わっている人の多くのカバンはやはり小さく見えますし、その中に入れられるものは限られてきます。するとやはり、「自分がその中にいることができるのか」が不安になるでしょう。いつかは自分は、不要な存在として誰かから切り捨てられてしまうかもしれない。それが"何から僕は捨てられるだろう"という不安につながっていく。

"中学生の頃に覚えた 人を本気で憎むという事 
それなりに歳は重ねて来たが 未だに心の中に根付く"

"本気で憎む"って、どんな事があったんでしょう?

大事な人を奪われた?自分の大事な気持ちを踏みにじられた?(毎回の事だがいい例があまり出て来ない)

本気の感情って、本気の感情からしか出て来ないんですよね。どうでもいいところから出てくるはずはありません。そしてマイナスな感情が生まれるにはプラスの感情が必要です。逆も然り。

つまり本気の憎しみが生まれるには、例えば本気の愛情や本気の努力などが必要でしょう。

この詩でも"本気"の感情ってものが出てきましたよね。

そうです。1番のサビで出てきた"想像しても飽き足らず"です。

この主人公は、いくら夢見ても飽きないほど、本気で夢を見ていました。そこに向かって歩き続ける自分を平気で傷つけてくる人に対して本気の憎しみを抱くのは、自然なことではないでしょうか。

しかもそれが今でも心の中に根付いているんです。どんなに歳を重ねても本気の感情が消えることはないし、本気の感情を踏みにじるような奴は消えることはない。

"人ゴミの中 すり抜けてゆく 通行人のふりをしながら 
誰かが誰かを傷つけて行く 通行人のふりをしながら"

この主人公は、本気で夢を見て歩き続けます。

でもその周りには、平然とその横を追い越したり、その姿を笑い飛ばす人もいる。そんな環境の中で、主人公が不安に襲われるのは当然です。

本気だからこそ、不安が伴うんです。本気で目指しているからこそ、このままでいいのかと不安になるんです。周りが大きく見えて、すぐ近くを通る様々な人の言葉で傷ついてしまいます。

人ゴミの中を歩いて行く人の中には、同じ方向を向いている人ばかりではありません。だからこそ、意図しない言葉で傷つけてしまったり、傷ついてしまう。本気で進んでいるからこそ、不安を抱えながら歩いているからこそなんです。

この、本気の感情を持つ人が潜在的に抱えてしまう不安のことを、岩沢さんは"夕立ち"と表現したのではないでしょうか。

岩沢さんも、北川さんとともに本気で夢見て路上での音楽活動などを繰り返す過程で、多くの人との関わりの中で傷つき傷つけ、不安を抱きながら前進してきたのかなと思います。

岩沢さんはとある雑誌(?)のインタビューで、この時に抱いていた気持ちを"モヤモヤ"と表現していました。ゆく先もはっきり見えない中で抱いた、不安に囲まれた本気の感情。こういうのを"モヤモヤ"と呼んだんじゃないかなと思います。

"夕立ちの他に何を理由にしろと言うのか 
何か言いたげな顔してごまかしては忘れてく"

「夕立ち」が表現した世界では、本気の感情を抱き、歩き続ける者たちが、得体の知れない不安に苛まれ、すれ違うたびに傷つき傷つけながら進んでいきます。

しかし忘れてはならないのは、この人たちは常に、誰かを傷つけていることも、傷つけられていることも、すべて夕立ちのせいにして忘れ、人ゴミにまぎれてしまっていることです。

本当の気持ちは、常に不安に押し込められて、出てこない。本気の感情の元に行動したことも、押しつぶされそうな不安のせいにしてしまう。それだけ、歩き続ける人の元には突如として夕立ちが降り、得体の知れない不安が押し寄せるということなんだと思います。

結局、本気で歩いている人ほど、その内側の気持ちには気づかない。ただただなんの前触れもなく降り出した夕立ちという名の不安に襲われ、うまくいかない自分を夕立ちのせいにして、誰とも向き合わずに忘れようとしてしまう。そんな皮肉のこもった世界観でした。


岩沢さんの皮肉のこもった曲、大好きです。


次回は、これまた皮肉にまみれた隠れた名曲、「うすっぺら」を見ていけたらなと思っています。それではまた。

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